2015年3月20日金曜日

司馬遼太郎 「台湾紀行」より「山人の怒り」

2011年の秋に、台湾を訪れる機会があった。2日間の用事が無事に済んで、台北から車で一時間ほどの基隆、九分(にんべんがつく)という街を案内してもらった。1989年にヴェネチア映画祭でグランプリをとった侯孝賢監督の台湾映画「悲情城市」の舞台となった街だ。映画の舞台となった旧鉱山の町は港町の基隆から山に登っていく坂の上にあり眺望が美しい。とても入り組んだ地形になっている。九分は日本情緒の残る街で懐かしい気がした。それは同時に植民地支配の名残りでもある。この映画は日本の植民地統治が終わった後で、大陸からやってきた新たな為政者と台湾土着の本島人の間に起きた1947年の二.二八事件がテーマになっている。

司馬遼太郎の紀行「街道をゆく」シリーズの40「台湾紀行」の中に「山人の怒り」という章がある。1930 年10月の山地人の一族であるセデック族による抵抗が日本軍によって鎮圧された霧社事件についてのエッセイだ。霧社というのは渓谷の上流にあって絶えず霧が湧いているということで名付けられた山の中の大きな集落の名前だそうだ。日本による台湾の支配は日清戦争が終わった1895年から第二次大戦の敗戦の1945年までの50年に及んだ。この日本統治時代の最後の大反乱だったと書かれている。この本の中では霧社の「山地人の多くは、タイヤル族だった」と書かれているが、これは長らくセデック族がタイヤル族の支族とみなされていたことによるものだ。


司馬遼太郎はこの霧社事件が熊本の神風連ノ乱に似ていると書いている。「誇りを奪われた者の反乱」であり、「展望がなかった」ことを承知で人々が決起したことが共通であるとの指摘だ。霧社公学校校庭で開会されようとしていた運動会に乱入した300人ほどの山人たちは、日本側の誰彼をかまわず134人を殺害したが、鎮圧のために投入された日本軍によって敗亡している。この事件の記述で凄まじいのが、反乱に参加した者たちを追った日本軍がある岩窟付近で「決起側の女子供約140人が集団自決している」のを発見していることだ。


司馬遼太郎は「人間は、自尊心で生きている。他の郷国を植民地にするということは、その地で生きている人々の - かれら個々の、そして子孫にいたるまでの - 存在としての誇りの背骨を石で砕くようなものである。」と書いている。「霧社事件」を描いた「セデック・パレ」という映画が2011年に台湾で大ヒットした。台北を訪れた時に、この映画のポスターを台北の街で見ている。日本には2013年の4月に公開された。台湾に親日家が多いのは仕事でも感じるが、その一方で植民地時代の記憶が風化していないのも事実だ


この本の終わりに司馬遼太郎と李登輝総統の対談が付いている。李登輝氏は1988年から2000年まで台湾の総統を務めた人だ。この対談の最後に、司馬遼太郎は「「台湾紀行」を書きながら、考えていたことがあります」として、幕末、越後の長岡藩に河井継之助という家老がいたことを李登輝総統に紹介している。「徳川にも関係なく、薩摩・長州にも関係なく、武装中立でいこうとした。しかし時代の暴力的な流れに押し流されてしまう。日本史の一大損失でした」。「この時代、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一に近い - 坂本龍馬も持ちましたが - 人物だったのに、歴史は彼を忘れてしまっている」と述べた後で「台湾の運命がそうならないように、むしろ台湾が人類のモデルになるように、書きながらいつもそう思っていました」と結んでいる。






2015年3月16日月曜日

堀口九萬一・大學父子について

詩人堀口大學氏は旧制長岡中学の出身なので、郷里の大先輩である。関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」(1980年、岩波現代文庫所収)を読んで面白かったのでノートを書いた。その本の中で大學先輩は父の九萬一氏のことにも触れている。この人についてもっと知りたくなった。堀口父子について詳しい新潟在住のN氏に教えてもらった2冊の評伝を読んだ。工藤美代子「黄昏の詩人 堀口大學とその父のこと」(2001年)と柏倉康夫「敗れし圀の秋のはて 評伝堀口九萬一」(2008年)である。

1865年に明治維新を3年後に控えた長岡藩の下級武士の家に生まれた堀口九萬一氏は、戊辰戦争で焼け跡となった長岡の「掘立小屋」住まいから、自分の能力だけを頼りに、江戸から明治に変わった世の中で身を立てようと努力奮闘する。九萬一氏は語学のセンスを持った人らしく、幼い時から漢学の才能を発揮する。長岡中学に入学すると英語の猛勉強をする。この人が帝国大學法学部の前身である司法省法学校を受験するのは明治18年のことだが、選抜試験は得意の漢学だったので合格すると、フランス法の習得のためにフランス語を学ぶ。やがて外交官を試験で選抜する制度が始まり、その一期生として合格を果たす。必死の努力が実り帝大から日本初の外交官の地位を得るところまでは目覚ましいほどの立身出世物語だ。

日清戦争の最中に朝鮮へ赴任となったところから、その後の九萬一氏の波乱万丈で苦労の多い生涯が始まる。この時に閔妃暗殺事件に連座し広島監獄に収監されてからは、外交官としての復職は果たしたものの、歴史の表舞台からは縁遠い人生を歩むことになる。書記官としていくつかの任国を経験した後で40代の半ばからメキシコ、スペイン、ブラジル、ルーマニアと一貫してラテン系の国々で代理公使から始まり、在外公館の責任者として外交官人生を歩んだ。詩才にたけ、赴任した国々の中では酒と料理と情熱の国スペインを一番楽しんだという九萬一氏は自らの流転の人生を楽しんだ人でもあるらしい。

53歳の時に、最後から2番目となった赴任地となったブラジルに特命全権公使として赴任する前に九萬一氏は故郷長岡を訪れ先祖の墓にお参りしている。「相変わらず一所不在の哀れな浮草暮らしです。折角故郷長岡に墓参しましたが、先祖の霊に報告するほどの手柄の一つない」とわびしい気持ちを漢詩にしているのが、この人らしい。越後長岡から試験に合格することだけで切り開いた人生としては十分とも思われるが、常にトップクラスで試験に合格し、関門を突破し続けた俊才としては、中央官界から遠く離れていたことを残念に思っていたようだ。父九萬一氏が長い間息子の大學先輩を外交官にさせようとあれこれと教育に励んだのも、孤立無援の自分が果たし得なかった外交官としての栄達の夢を息子に託したかったのだろう。

病弱で何度も大病をしている息子の大學先輩は、父の期待には応えられなかったが、それとは別の形で日本の歴史に名を残すことになる。明治25年生まれのこの詩人は、東京本郷の生まれだ。父が27歳で帝大在学中に赤門の近くで生まれたことから大學と命名されたと本人が説明している。それから九萬一氏が朝鮮に赴任したので、留守家族は長岡に移り住んだ。この詩人が3歳の夏の長岡の花火を鮮明に覚えているのは、その秋に亡くなられたご母堂が入院先の病室の窓際でじっと花火を観ていた記憶があるからだそうだ。


大學先輩は、「長城」の号を持つ漢詩人でもあった父から詩才を引き継ぎ、家ではフランス語しか話さなかったベルギー人の養母から語学を学んだ。日本では浪漫派の歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹、晶子夫妻の率いる新詩社に出入りして詩人としての修行を始めるが、息子の将来を心配した父九萬一氏は二十歳になった息子を赴任先のメキシコに呼び寄せる。父の狙いは息子にフランス語を習得させることだったが、息子は読書人である父の書棚にあるフランス文学を片っ端から読み始める。詩心のある父は、語学教育の一環として息子にヴェルレーヌの詩を読む手ほどきをする。詩人堀口大學にとってこれ以上の英才教育はないだろう。

工藤美代子氏は大學先輩が昭和45年に79歳になってようやく文化功労者として顕彰された時の詩を紹介している。「堪えて 忍んで 我慢して 命の長さで戦う以外 生き残る手はないと見た 四十だった」とある。代表作である訳詩集「月下の一群」が出版されたのは大正14年の秋で、詩人が33歳の時である。30台後半から40代の働き盛りの頃に昭和詩壇で活躍した同世代の詩人たちから、さほど評価されなかったことを、大學先輩がかなり気にしていたことが二つの評伝に書かれている。やがてその功績により文化勲章を受章したのは、昭和54年で、87歳の時である。

大學先輩が20代後半に自費出版した訳詩集に序文を書いて以来、この詩人を評価し続けた永井荷風はこの詩人の本質を次のように表現している。「そもそも君はこの年月かれ等西欧詩家の住みける都に同じく住みて朝な夕なその人々の眺めうたひたる同じき雲と水と同じき御寺の塔と町の花園とをまた同じき近世の悩みとよろこびを以て打眺めたまひし詩人なり。」 昭和初期の詩壇でフランス詩を神聖な「研究」の対象としていた人々にとっては、10余年を海外で暮らしてフランス語での生活と感じ方を自然と身に着けた大學先輩の仕事は違和感と羨望をもって眺めずにはいられなかったのだろうか?

堀口父子の両者とも長岡高校の大先輩にあたる。昭和16年に旧制長岡中学創立70周年を記念して、大學先輩は第二校歌を作詞されている。「かざす縁の三葉柏 源遠きわが藩の。。。」で始まるとても格調の高い歌だ。この校歌の額は今も長岡高校の記念室に飾られている。在校時にこの額を見たことがあるが、それが九萬一氏の手によるものだとは知らなかった。合掌。

 



2015年3月14日土曜日

吉井勇 「ゴンドラの唄」について

浪漫派の歌人吉井勇は「ゴンドラの唄」の作詞者としても知られている。大正4年(1915年)に吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲したこの歌は、芸術座のイタリアを舞台にした物語で女優松井須磨子が歌って流行したそうだ。吉井勇の作詞については大きく2説がある。一つは童話で有名なアンデルセン(デンマーク)が1834年に書いた「即興詩人」の森鷗外訳(明治35年出版)を読んだ吉井勇が、その本の中に出てくるヴェネチアの里謡を基に作詞したという説だ。もう一つはイタリア在住の作家塩野七生氏が1987年の「わが友マキアヴェッリ」で指摘して以降広く知られている説で、イタリアの「バッカスの歌」をイタリア旅行をした上田敏か誰かが日本に持ち帰り、それが吉井勇に伝わったのではないかという説だ。

 新潮文庫の塩野七生「わが友マキアヴェッリ」を確認してみると、第四章「花の都フィレンツェ」に吉井勇の「ゴンドラの唄」についての記述がある。ここで塩野氏はロレンツォ・ド・メディチの書いた「バッカスの歌」という詩を紹介している。

     「青春とは、なんと美しいものか
    とはいえ、みるまに過ぎ去ってしまう
    愉しみたい者は、さあ、すぐに
    たしかな明日は、ないのだから」

塩野氏はこの詩を紹介した後で、「以前からいだいていた想像を披露してみる気になった」そうで、その推理の根拠としてロレンツォの詩が、「フィレンツェにとどまらずにヴぇネツィアでも大流行し、謝肉祭中は欠かせない歌になっていたという事実」を指摘している。そしてロレンツォの詩と吉井勇の「ゴンドラの唄」の一番を比較する。

         「 いのち短し 恋せよ乙女
    紅きくちびる あせぬまに
    熱き血潮の 冷めぬまに
    明日の月日はないものを」

 塩野氏が「大意ならば、同じではないか」と指摘しているように、「バッカスの歌」と「ゴンドラの唄」の細部は明らかに異なっている点が気になった。塩野氏は吉井勇の歌詞を誉めて「ロレンツォだって、この日本語訳を知れば、感心するのではないかと思う。」として、二つの歌の違いは吉井勇の意訳の結果だと説明する。また「吉井勇の完全な創作かもしれない」とも付け加えている。

 岩波文庫のアンデルセン原作、森鷗外訳「即興詩人」を読んでみるとヴェネチアに向かう舟の上で、船頭の若者の歌を聴く場面がある。この章のタイトルが「妄想」であるのが面白い。「其辞にいはく、朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。」 「ゴンドラの唄」の1番はこの鷗外訳の内容と一致し、とても格調が高い。2番、3番になると、だいぶ調子が変わって率直に娘を口説く歌になる。アンデルセンは、この地元の歌について「まことに此歌は其辞卑猥にして其意放縦なり。さるを我はこれを聞きて挽歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壮の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を発せしむるに及ばざりき」と書いている。森鷗外の名訳が光っている。 酒と恋と歌を愛した浪漫派の吉井勇がこの本を読んで感激したであろうことは想像に難くない。

 塩野氏がもしも森鷗外訳のアンデルセン「即興詩人」を読んでいたならば「吉井勇の完全な創作かもしれない」という文章はありえないだろう。鷗外訳の「即興詩人」の中の表現と吉井勇の「ゴンドラの唄」は1番から3番までを通じて、ほぼ同じ内容になっている。塩野氏は「大正時代に流行ったというこの歌を、私がはじめて知ったのは、黒沢明監督の「生きる」を観た時だった。」 と書いている。塩野氏は映画を観て知った「ゴンドラの唄」と「バッカスの歌」の大意が似ているので、「自分はそのような想像をいだいていた」と書いているにすぎない。それが確固たる「塩野説」として広まったようだ。