2015年12月28日月曜日

内田義雄 「えつ子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」 に登場する長岡の先人たち

長岡出身の世界的なベストセラー作家である杉本えつ子女史についてのTV番組の中に登場した内田義雄という著者のことが気になったので、ネットで検索して買った本。同女史の父である長岡藩の筆頭家老稲垣平助が幕末の越後長岡の英傑であった河井継之助により、その地位を追われた辺りについての記述が面白い。地元の郷土史研究者へのインタビューなどを丹念に積み重ねた労作のようだ。

河井継之助と言えばわたしの母校である県立長岡高校の校歌にも「かの蒼龍が志を受けて 忍苦まさに幾星霜」と謳われている。その後、司馬遼太郎の「峠」を読み、「台湾紀行」の後書きを読んでますます河井継之助のことを郷土の先人として尊敬してきた。長岡の先人としては他にも山本有三の「米百俵」に出てくる小林病翁(虎三郎)などもいる。稲垣平助を含むこれら幕末長岡の先人たちの関係が良く整理されていて目から鱗だった。北越戊辰戦争で長岡を焦土にした事態を招いた責任者として、人々の怨嗟の的でもあった河井継之助が、その後に名誉回復を果たしたくだりが興味深い。


2015年12月12日土曜日

村上春樹 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

去年の暮れに帰省した時に買って積んだままだった「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終えた。「風の歌を聴け」以来、「羊をめぐる冒険」、「ノルウェイの森」、「国境の南、太陽の西」あたりまでは新作を楽しみにしていた。熱いファン時代を20数年すごしてから少し冷静になった。その後の話題作は、書店で手にとってチェックしても、買わないこともあった。過去の作品世界以上のものに出会えると思えなかったからだと思う。そのくらい村上春樹は気になる人だ。

去年くらいから3冊ほど読んだのは他の人との話の中に出てきたから。「1Q84」はいつもはミステリーや犯罪捜査物しか読まないつれあいが読んでいたので、何ごとが起きているのかと興味を持った。この作品は面白かった。ダブル主演ともいうべきメインのキャラクターの両方が魅力的で、「1人の主人公が2つの世界を行き来する」村上作品のパターンを越えた感じがした。「海辺のカフカ」はFB友だちのRさんの「この作品をどう思うか?」という質問がきっかけだった。この作品を読んだ後で、今年の秋の宮沢りえ主演の蜷川版「海辺のカフカ」ロンドン公演を観る機会があった。原作と舞台を比較することが出来たのは貴重な経験だった。

今回「巡礼の年」を読んだのは今年になってから高校同窓のOさんに2度ほど強く勧められたのが理由だった。とても面白かったが、複雑な気持ちになった。登場する人物たちが、それぞれに過去の作品の登場人物を思い出させる部分があって、同窓会みたいな感じがした。
わたしは村上春樹の初期3部作に強い思い入れがある。村上春樹が若い時に書いた作品の世界をふくらませて、年を重ねて様々な変奏の試みを行っていることはとても興味深いし、どの作品も面白い。


主人公の「つくる」は学生時代の仲良し5人組から突然、理由も知らされないまま「排除」された経験を持つ30代の青年だ。この喪失の痛みと排除される哀しみは「ノルウェイの森」で仲良し3人組の一人だった主人公が、まずその一人である友人が自殺することを経験し、残されたメンバーの片割れである直子にも同じように向こう側に去られてしまう部分と共通している。この喪失感は「国境の南 太陽の西」で、小学生だった頃に島本さんとの幸福な時間を共有していた主人公が、彼女の引っ越しの後で経験した感情ともよく似ている。「巡礼の年」が「ノルウェイの森」と「国境の南 太陽の西」の変奏曲だとすれば、面白くないはずがない。

「巡礼の年」というタイトルが凄い。この物語は16年前に自分が遭遇した事態におびえ、おそらくは自分を守る最小限の方法としてその記憶を封印して生きてきた主人公が、いったい何が起きたのかについて知るべきだと決意し、「地獄めぐり」をする話とも言える。その意味では謎解き小説の形にもなっている。面白いのは、長いあいだ避けてきた過去と向き合う作業の必要性について主人公を説得するのが、ようやく主人公が心を開いてつき合えそうだと感じる新しい女友だちであることだ。この「巡礼の年」の「沙羅」が主人公に語りかける台詞のいくつかは「ノルウェイの森」の「みどり」をそのまま連想させる。彼女たちはそれぞれの主人公にとっては再生の希望を象徴する存在だが、「地獄」を経験した主人公たちをそのまま受け入れるのではなくて、彼らに自らの過去と向き合うことを要求し、きちんとした選択を迫るところが共通だ。

主人公が「巡礼」の旅を始めて、最初に知ることになるのが、かつての5人組の中でとても魅力的だった「シロ」というニックネームで呼ばれた女ともだちが、ほとんど不可知な形で「崩壊」していったことだった。このエピソードが「巡礼物語」の根幹をなしているのだが、その「崩壊した可憐な娘」の描写が、「国境の南 太陽の西」の中に出てくる「イズミ」のイメージそのままでびっくりした。

「巡礼」の旅を続けてヘルシンキまで旅した主人公は、とうとう16年前に起きた「排除」事件の全貌を知ることになる。その理由となったある出来事について主人公が知らされなかったことと、それで深く傷ついたことはとても気の毒だ。ところが、そのことについて主たる責めを負うべき人について、主人公がなにやら罪の意識を感じてしまうことがこの小説の最大の主題なのだと思う。何が真実で、何が虚構だったのか?誰が加害者で、誰が被害者だったのか?この最終部分を読んで「海辺のカフカ」でこの小説家が「雨月物語」や「源氏物語」を引用しながら、「夢」と「生霊」について語っていたことを思い出した。


2015年12月4日金曜日

松谷みよ子 文 丸木俊 画 「つつじのむすめ」

ロンドンを離れて帰国した年の春にロンドンのリッチモンド公園の中にあるイザベラ植物園がツツジの名所であることを教えてもらった。4月の末から5月の後半までの一か月ほど何度も通って素晴らしいツツジの写真を撮影した。その時にウェブサイトで長野県上田市に伝わる「つつじの乙女」という民話のことを知った。この話をもとにして松谷みよ子さんが1974年に「つつじのむすめ」という絵本を出版している。原爆の絵で知られる丸木俊さんが絵を描いた。この秋に帰国してからamazon でこの絵本を入手した。乙女の真摯な恋心ということで子供向けの絵本になったのだろう。全国学校図書館協議会選定の「よい絵本」という帯がついている。

ウェブサイトで物語については知っていたが、丸木俊の絵と眺めながら文を読んでみると鬼気迫るものがある。いくつもの山を隔てて住んでいる若者と娘が祭りの晩に出会い、恋をする。若者に会いたい気持ちを抑えられない娘が夜になるといくつもの山々を越えてやってくる。娘のお土産は温かいつきたての餅だった。ある時不審に思った若者が、その餅について問い質すと、娘は手に握ったもち米が体の熱で餅になっただけだと答える。これを聞いて娘が異常な力を持っていることを確信した若者は怖ろしくなった挙句に、娘を谷底に突き落としてしまう。それからこの谷に真っ赤なつつじが咲くようになったという物語だ。

いくつもの山々を越えて夜ごとに訪れる娘の異常な力、つきたての柔らかい餅、真っ赤なつつじ。恋する若者たちの描写が鮮烈だ。やがて怖れをなし、娘が疎ましくなる男心というのもありそうな話だ。「よい絵本」に選定されているくらいだから、直接的な表現はいっさい出てこない。表現されているのはけなげな恋心と、一生懸命さ、恋の成就を願う激しい情熱だけなのに、思わず息を止めてしまいそうなくらいに妖しく美しい絵本になっている。

長野県では上田市以外にも似たような民話が存在しているそうだ。共同体としてのムラ社会でこのような民話が語り継がれる理由は明らかだろう。若者にとっては恋の火遊びがトラブルに発展することの戒めであり、娘たちにとっては男というものが移り気で無責任で、逃げ出すとなったら過ちも犯してしまいかねない弱虫であることの戒めだ。「一時の熱情に惑わされず、親の決めた伝統的な結びつきが良い」という説話なのだろう。

イザベラ植物園のツツジの美しさに感動した時に、田中冬二のツツジの詩や、新潟県の佐渡情話を連想したことにも関連して、この物語についてブログを書いている。この絵本を読んでもう一度ブログを書こうと思ったのは、この絵本の12ページにある絵を見て、新しい連想が生まれたからだ。この絵が何かに似ていると思ったら、「日高川」の清姫の図と共通していることに気が付いた。恋する気持ちの激しさというのは古今普遍のテーマである。




井上靖 「詩集 乾河道」

藤沢有隣堂5階の古書セクションで、井上靖の「詩集 乾河道」を見つけた。500円玉一枚で買えてしまった。「テッセン」という詩がある。植物に詳しいFB仲間のTさんに鉄線とクレマチスの関係について教えてもらったことがある。中国経由か、欧州経由かの違いはありそうだが海を渡って来た花であることは間違いない。

「テトラポッド」という詩も面白い。「合流点」という詩にはキルギス共和国のイシククル湖が出てくる。1990年代からこの国には仕事で行く機会があり、3年間の駐在勤務も経験したので思い入れのある国だ。「もしもここで」という詩にはゴビ砂漠が出てくる。最近ウランバートル在住のFB仲間のAさんが投稿してくれた写真そのままの世界だ。

井上靖は8冊の詩集を出しているが、このうち3冊のハードカバーが手元にある。なんだかうれしい。

    『北国』(昭和33年 東京創元社)
  『地中海』(昭和37年 新潮社)
  『運河』(昭和42年 筑摩書房)
  『季節』(昭和46年  講談社)
  『遠征路』(昭和51年 集英社)
  『乾河道(かんがどう)』(昭和59年 集英社)
  『傍観者』(昭和63年 集英社)
  『星蘭干』(平成2年  集英社)

2015年11月26日木曜日

ナサニエル・ホーソーン「若いグッドマン・ブラウン」 29年ぶりの再会

生まれて初めて飛行機に乗って太平洋を横切ったのは1986年の夏だ。あれから29年になる。3年がかりで海外留学の準備をして、なんとか会社の派遣制度に合格した時は嬉しかった。大学院は秋から始まるのに、夏から派遣されたのには理由がある。会社としてもリクルート対策やら何やらで社員を派遣する以上は何とか落第せずに無事に大学院の課程を修了してもらいたい。ところが帰国子女でもない限り、仕事のかたわらでTOEFL、GRE、GMATなどの留学準備はなんとか間に合わせたとしても、自由に討論し、意のままに文章が書けるというレベルには程遠い。それで企業派遣留学の場合、大学院の始まる前に語学研修を受けることになっていた。今はどうかは知らない。

英語研修は6月からの8週間だった。研修地を選ぶことができたので米国東海岸のニューヘイブンにあるイェール大学の夏季講座を選んだ。秋からはフィラデルフィアなので、まったく同じ場所だとつまらないが東海岸の雰囲気に慣れておきたかった。夏の間にニューヨークにも時々は行きたいと思っていた。この英語研修プログラムはよく出来ていた。毎回作文を提出する授業と、時事ニュースなどを読みながらの会話の授業、課題図書を読んで感想を議論する授業があり、各授業ごとにレベル別のクラス編成だった。かなりの量の宿題が出た。こちらも秋以降のサバイバルが心配だったので、夜は図書館で身を入れて予習をした。

その時の課題図書の一冊がナサニエル・ホーソーンの「若いグッドマン・ブラウン」だ。読んでから授業に出たはずだが、どこが面白いのかピンとこなかった。これは必ずしも英語力の問題ではないと思う。同じ授業で使われた「グレイト・ギャツビー」は一行、一行真剣に読んだのですっかりスコット・フィツジェラルドが好きになった。海外の小説を原語で読むのがいつも良いというわけではない。優れた翻訳がある場合には速度についても、印象の強さについても圧倒的に有利なことが多い。さらに言えば世界には他の言語もたくさんあるから、すべてを原語で読むなんてことは不可能だ。ただし辞書を引きながら原文をゆっくり読む経験は無駄にはならない。好きな作品にぶつかった場合などはとても貴重な経験をすることになる。

「若いグッドマン・ブラウン」がずーと心に残っていたのは理由がある。同じクラスにYさんというとても素敵な人がいた。建築の勉強をしているご主人に同行して、ニューヘイブンに住んでいる女性だった。先生が「さて、この物語を読んでどんなことを感じましたか?」という質問で始まった議論の最後に、Yさんが手を挙げた。「この物語は、若者の通過儀礼(initiation) がテーマになっていると思います。」  わたしを含む10数人の他の生徒はポカンとしていた。先生は「自分がその教材を選んだ気持ちを理解できる生徒がいてくれて嬉しい」と言わんばかりの満面の笑みでYさんの発言に耳を傾けていた。

58歳になった自分がホーソーンの短編集を再び手にしたのは、ロシアの小説家がホーソーンの「ラパチーニの娘」という短編を基にして、「毒の園」という小説を書いたという記事を読んで、どう違うのか調べてみたいと思ったからだった。面白かったのでこの比較についてはブログを書いた。この短編集で「若いグッドマン・ブラウン」を読み、「僕の親戚モリノー少佐」を読むとこの小説家が「通過儀礼」というテーマに興味を持っていたことが良く理解できる。1986年の夏のYさんのことを思い出した。今も元気だろうか。

さらに「ブルフロッグ夫人」、「痣」、「ウェイクフィールド」を読むと、この小説家が自分と他者との関わりに強い関心を持っていたことが明らかだ。「ラパチーニの娘」という薬草園に住む美女に若者が恋をする話もその延長線上にある。この小説は怪奇小説として分類されているが、他者との関係性についての考察をした小説と読むのが本筋だろう。その点では「痣」という作品とも共通している。薬草園のある屋敷で美女は静かに暮らしていた。その薬草成分がこの美女の身体にしみ込んでしまう。それはそれで自然なことで特段の不都合はなかった。ところが隣りに越してきた若者と恋に落ちた途端に、この薬草成分が他者にとっては猛毒であることが問題となる。毒のある美しい花、棘のある美しい花は人間関係にとっても深い示唆を含むテーマであるような気がする。

ツクバトリカブト

狐の手袋(ジギタリス)

2015年11月23日月曜日

ホーソーン「ラパチーニの娘」とソログープ「毒の園」

615日号の週刊新潮の書評で川本三郎という評論家がロシアの作家ソログープの「かくれんぼ・毒の園」(岩波文庫、中山省三郎、昇曙夢訳)を紹介していた。文庫に収められた7つの短編のうちの「毒の園」を「耽美妖麗な逸品」と激賞している。学生が花園のある隣の家にすむ美しい娘に恋をするが、その娘には大変な秘密があって。。。という紹介文を読んで妙な気持ちになった。どこかで聞いた話のような気がする。ウェブサイトで調べてみるとソログープが1908年に発表した「毒の園」は、アメリカの作家ナサニエル・ホーソーンが1844年に発表した「ラパチーニの娘」を下敷きにしたものであることがわかった。竹田円という研究者が2008年に発表した論文にはこの二つの小説の共通点がまとめてある。

数年前に買ったアメリカ短編小説選というCDの中に「ラパチーニの娘」が収められている。阿野文朗訳の「ラパチーニの娘 ナサニエル・ホーソーン短編集」(松柏社)と岩波文庫に収められているソログープの「毒の園」を読み比べてみた。毒草園というと物騒な響きだが、薬草を研究している学者の家の庭に毒のある美しい花が咲いているのは自然な設定だ。この物語の悲劇はこの薬草園で育った美しい娘がいつの間にか毒草に対する耐性を身に着けてしまったことだ。これは悲劇とも言いきれない。この娘が毒草に対して抵抗力を持っていなければ彼女はとっくに死んでいたのだろう。彼女は長い期間にわたる毒草との接触により、毒を蓄えた身体を持って生きることになる。

以上の部分と、この毒草園のある家の隣に越してきた若者が、美しい娘に恋をしてしまうところまでは二つの小説はほぼ共通している。違っているのは美しい娘が毒に染まった怖ろしい存在であることを若者が知ってしまってからの話の結末だ。19世紀中頃に書かれた「ラパチーニの娘」では、娘が毒に染まっていることを知った若者はまずショックを受ける。気の毒に思った若者は解毒薬で娘を元の身体に戻そうとする。これが劇薬となって娘は死に至る。

20世紀の中頃に書かれた「毒の園」の若者は全く別の行動を取る。美しい娘に恋をして、その身の上を哀れに思った若者は娘と一緒に死んでしまうことを望む。若者は叫ぶ。「私の渇望は刹那の出来心ではないのです!.....あなたのやさしい足下に死ぬのが私の本望なのです!」この文句を書きたいばかりにソログープは、ホーソーンの小説の変化形を書いたのかも知れない。

2015年10月15日木曜日

テニスンの詩「The Lady of Shalott」とJ.W. ウォーターハウスの絵

鏡の物語というのは世界中に存在している。グリム童話で白雪姫に嫉妬する継母の話は有名だ。ロシアの詩人マリーナ・ツヴェタエヴァにも鏡の世界をテーマにした詩がある。ロシア映画「運命の皮肉」(リャザノフ監督、1975年)の中で、全盛期のアラ・ブガチョヴァが吹き替えで歌っている。「くもった鏡を覗いて 靄のかかった夢の中から探りあてたい あなたの道はどこへ続くのか あなたはどこへ錨を下ろすのか」。

荒井由美が70年代前半に彗星のようにデビューしてすぐのアルバムの中に「魔法の鏡」という歌が入っていた。「魔法の鏡を持ってたら あなたの暮らし映してみたい」。 大川栄策が歌った「さざんかの宿」も窓ガラス越しの世界を見ようとしているのは共通している。「くもり硝子を手でふいて あなた明日が見えますか」。

ロンドンを離れる前にテート・ブリテンを訪ねてきた。1987年にロンドンを初めて訪れた時以来、このギャラリーのラファエル前派の部屋は気に入っている場所だ。ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、バーン・ジョーンズなどどれも素晴らしいが、ウォーターハウスの「シャロットの女 The Lady of Shalott」も気になる絵だ。この絵は有名なので何度も観ているが、そのテーマとなっているテニソンの詩を読んだことがなかった。岩波文庫「対訳 テニスン詩集」で和訳が読める。シャロットの女はアーサー王伝説のキャメロット城が見える川の中洲に建つ塔の上の部屋に住んでタペストリーを織っている。

高い塔の部屋には大きな鏡がかかっている。この鏡に映る世の中を眺めながらそれを織物の柄にするのがこの女性の仕事だ。塔の一室に幽閉されているにも関わらず、彼女は鏡に映る影を通して外の世界を眺めている。それを解釈し、それを織物の柄として表現する行為である。彼女は塔の外の世界を、直接に見ることが許されていない。次第に鏡を通じて眺める世界に飽きてしまう。倦怠と不満はアーサー王伝説の騎士ランスロットを見た時に頂点に達し、彼女は禁を破って騎士を自分の目で直視してしまう。魔法の鏡は砕け散る。恋なのか好奇心なのか退屈だが穏やかな塔の部屋の中の世界を失った彼女は、小船に乗って川を漂って行く。死出の旅だ。

神話や物語をテーマにした絵を描いたウォーターハウスには「ヒュラスとニンフたち」、「エコーとナルキッソス」、「オデュッセウスに盃を差し出すキルケ」、「嫉妬に燃えるキルケ」などの傑作がある。どれも私自身のロンドンの生活の記憶や読んだ本と結びついている懐かしい絵ばかりだ。これらの絵の多くが水面に関係していることと、その水面には睡蓮が描かれていることが興味深い。


2015年9月21日月曜日

夏目漱石「カーライル博物館」 チェルシーにある博物館を訪れた

チェルシーはテムズ川の北岸にあり、ロンドンの繁華街ケンジントンやナイツブリッジにも歩いて行けるお洒落な街だ。2011年の暮れに2回目のロンドン勤務を始めた時に地下鉄スローン・スクウェア駅やキングス通りの近くの短期滞在用フラットに2か月ほど住んだ。その時に行きそびれていたカーライル博物館を訪ねてみた。1901年から1902年までロンドンに留学していた夏目漱石がこの博物館を友人で味の素を発明した科学者として知られている池田菊苗博士と共に訪れたことを随筆に書いている。青空文庫に入っているので簡単に読むことができる。

「カーライルの家」というナショナル・トラスト作成のパンフレットを売っていた。1795年生まれのトマス・カーライルは19世紀のヴィクトリア時代の英国を代表する歴史家・評論家だったそうで、このパンフレットにはディケンズ、サッカレーなどがカーライルを讃えた言葉が引用されている。夏目漱石の訪問のことは記載されていない。「何か漱石関係の展示物はないでしょうか?」と博物館の案内の人に聞いてみた。案内の婦人は笑顔になり、引出しの中から手製のクリア・ファイルを取り出して見せてくれた。同じような質問をする日本人のビジターには慣れている様子だ。このファイルは漱石のカーライル博物館訪問に関しての日本の新聞に掲載された記事のコピーなどを一冊にまとめたものだ。後ろから「知らなかったわ」と日本語の声がした。観光客らしい二人組のご婦人だった。


この漱石関係ファイルを手に取って眺めるとカーライルと日本の関係についてまとめた論文のコピーがあった。それによると「フランス革命史」他の著作のあるカーライルは、数年がかりで仕上げた草稿を友人に批評してもらう目的で貸し出したところ、手違いで紙屑として焼かれてしまう。さすがに落胆するが、やがて気を取り直してもう一度原稿を書き上げた不屈の人として日本に紹介されて有名だったとある。このエピソードが中村正直がサミュエル・ジョンソンのオリジナルを和訳した「西国立志篇」に紹介されているそうだ。この本は1870年に出版されて福沢諭吉の「学問のすすめ」と同じように明治時代のベストセラーになっている。


ウェブサイトをチェックすると内村鑑三が1898年(明治30年)に書いた「後世への最大遺物」の中でも上記のエピソードが紹介されているが、誰が間違えて草稿を燃やしてしまったのかについての詳細がやや異なっている。「カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。」 (内村鑑三「後世への最大遺物」 、青空文庫より抜粋)



この博物館はアルバート橋のすぐ側にある。「このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだ邸がすぐ傍の川端に向いた通りにある。しかしこれらは皆すでに代がかわって現に人が這入っているから見物は出来ぬ。ただカーライルの旧ろのみは六ペンスを払えば何人でもまた何時でも随意に観覧が出来る。” “チェイン・ローは河岸端の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に在る。番地は二十四番地だ。」  (青空文庫より抜粋)


「毎日のように川隔てて霧の中にチェルシーを眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる庵りを叩いた。」  (青空文庫より抜粋)

「余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。」  (青空文庫より抜粋)







オスカー・ワイルドの家 童話「星の子」

小さい子供の頃に絵本や挿絵入りの童話を手当り次第に読むのが好きだった。たいていは絵に興味を持ち、それから物語に引き込まれていったと思う。「星の子」という絵本を読んだことがとても強く印象に残っていた。貧乏な夫婦に生まれたとても可愛らしい子供の話だ。まわりにちやほやされて育った子供はやがてわがままな人間に育ち、親をないがしろにする。その罰が当たったのかその子供の境遇は暗転する。宿無しとなり、あちらこちらを苦労しながら彷徨うことになる。最後に別れた両親にめぐりあってこれまでの不孝を詫びると幸せな結末がやってくる話だったと記憶している。オスカー・ワイルドという英国の作家の物語だと大人になってから知った。

この人は結婚もし、子供もいたが、ゲイの趣味もあったそうだ。この作家が生きていた時代には違法行為だったので裁判にかけられて牢獄暮らしを経験している。その色彩に満ちた人生は映画にもなった。子煩悩だったらしく、自分の子供たちに語って聴かせるための童話を自分で書いた。学校の教科書で読んだ「幸福の王子」もこの人が書いている。ロンドンを去る日も近くなってきたのでチェルシーにあるオスカー・ワイルドが住んだ家を訪ねてきた。テムズ川の北側の川岸の通りからすぐで、チェルシー橋とアルバート橋の中間くらいのところにタイトストリートという通りがある。その34番地。公開はされていないので外から眺めてきた。





2015年9月4日金曜日

イワン・ブーニン作品集「暗い並木道」の思い出

小説家イワン・ブーニンは詩人として活動を始め、チェーホフと親しくし、ロシア革命後はフランスに亡命して1953年にパリで客死した。2014年3月に11年ぶりに群像社のイワン・ブーニン作品集の続刊が出た。作品集の第1巻「村・スホドール」が刊行され、「アントーノフカの林檎」が入っているのがうれしい。2003年に3巻と5巻が出たきり、そのままになっていたものだ。この作品集の完結を待ち望み、群像社の他の本を買っては、読者カードを送って、この作品集の完結予定を問い合わせてきたのでうれしかった。残り2巻の刊行を待ち望んでいる。また10年待つのだろうか?

わたしのブーニン体験はマケドニアで始まっている。中央アジアのタシケントからバルカン半島のスコピエに引っ越して、習いたてのロシア語を忘れたくなくて先生を探した。ペテルブルグ出身の先生を見つけたので、週末にお宅でお茶を飲みながらのレッスンを受けた。先生はすぐにこの生徒が教科書を使った授業に関心がないことを理解したらしい。ある日、先生が数枚のプリントを用意してくれた。ブーニンの「カフカス」だった。とても初歩の露語学習者に歯が立つような文章ではない。一語一語確認しながらの奇妙な授業がしばらく続いた。最初は無茶かなと思ったが、不思議な緊迫感と色彩のある文章がとても好きになった。この逐語訳体験は詩人出身のこの作家を理解するのに役に立ったと思う。お茶を飲みながらロシアの歌曲であるロマンスの話をするのが好きな先生が、何故その掌編を選んでくれたのかにも興味があった。

マケドニアからキルギスに転勤した後の2008年の夏休みを語学研修のためにペテルブルグで過ごした。本屋めぐりをした時にブーニンのMP3のオーディオ本を探した。ビシュケクに戻ると「暗い並木道」所収作品の中から会話の多いものを数編選び、和訳本と対比して意味を理解しながら、朗読を聴いた。懐かしい思い出だ。「暗い並木道」は鬼気迫るほどの結晶度を誇る短編集で、さすがは欧米の読者を魅了してノーベル賞をもらった作家の作品とうならせるものがある。わたしが好きなのは群像社の作品集第3巻に収録されている「ナタリー」、「パリで」、「暗い並木道」だ。「ルーシャ」も良い。若者が主人公だったり、若い娘が主人公だったり、初老の作家が主人公だったり、年配の婦人が主人公であったり話はいろいろだ。傷ついたり、傷つけられたりといった短編と中編が延々と繰り返される。宝石のような透明感がこの作品集の魅力だ。

「暗い並木道」のテーマは愛と死に集中している。旧ソ連圏では教科書にも採用された。中央アジアのビシュケクで働いていた頃に、ある食卓でブーニンの作品が好きだと言う話をしたことがある。相手はわたしより少し若い40代の人だった。「旧ソ連の時代は検閲が厳しくてね。ブーニンの小説は色恋の描写が楽しみだったよ」というコメントが帰ってきた。なるほどそういう読み方もありそうだ。米原万里さんが「打ちのめされるようなすごい本」(文春文庫)の中で「暗い並木道」(1998年1月、原卓也訳)のことを「急いで読むのがもったいないような玉露のような文章だ」と激賞している。米原さんはブーニンの作品に二度出会ったそうだ。最初は若い頃に原文で読んで「男の身勝手さに腹を立て恋に臆病になった」そうだ。2度目に原卓也訳を読んで「かけがえのない一瞬一瞬への懺悔録と感じた」とある。主人公の男のロマンチックな感情の対象となる女性像が限られていて「感情移入できないので鬱屈がたまる」とも書いている。

ブーニン作品集の第5巻に「チェーホフのこと」という評伝がある。中部ロシアのヴォローネジに生まれたブーニンは20代で新進の詩人として注目されるようになった。その後ペテルブルグ、モスクワに移り住んで、先輩作家たちから学ぼうとする。すでにその頃は高名な作家だったチェーホフが若いブーニンの才能を評価し、二人は仲が良かったそうだ。パリに亡命していたブーニンがノーベル賞を受賞したのは81年前のことで、ロシア人の小説家で初の快挙だった。ロシアの新聞は「ノーベル賞が革命の敵に授与されたのは遺憾である」と報じた。やがてスターリンの死により雪解けの時代が始まると、ブーニンの古い時代をしのぶ抒情的な作品はロシアでの出版が許され、人気作家となった。それでもロシア革命を直截に批判した「呪われた日々」などはペレストロイカの頃まで解禁されなかったそうだ。

2015年8月24日月曜日

夏目漱石の虞美人草 と倫敦塔のポピー

夏目漱石の小説「虞美人草」に、主人公で京都から東京へ出てきた青年が、かつて世話になって恩義のある井上老人から手紙をもらう場面がある。「拝啓柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候(がしたてまつりそうろう)。」ここで使われている柳暗花明は「春の景色が美しい様子」という意味で、昔は時候の挨拶によく使われたようだ。ところがこの青年の心境はのどかな春の気分からは程遠い。恩人の先生の娘を嫁にもらうのが正しい選択と考えつつも、古臭いしがらみに縛られるようで億劫な気がして、板挟みの状態にある。東京という新しい天地で出会ったプライドの強い近代的な女性にも魅かれてしまう。この状況を描いた小説の題名が「四面楚歌」とも関わりのある「虞美人草」となるのは大げさな気もするが、昔の人間関係というのはややこしいものだったのだろうと想像できる。

虞美人草はケシ科の一年草であるヒナゲシの別名だ。麻薬の原料となるケシは越年草で背も高い。英語ではどちらもポピーとなる。漢字で雛罌粟と書く。この読み方としてはヒナゲシもコクリコもある。四面楚歌の状況に追い込まれた覇王項羽は「虞や、虞や、汝を如何せん」と思案にくれる。敗色の濃い戦の前線での話である。武人としては残りの手勢を率いて退路を切り開く仕事に女人を連れて行くわけにもいかないが、虞美人を残していけば敵軍の戦利品となるのは目に見えている。虞美人は味方の足手まといになることも、敵将の虜となることも良しとせず、自死を選ぶ。その墓に咲いた赤い花が虞美人草と呼ばれるようになったそうだ。


夏目漱石は郷里長岡に縁のある人だ。長岡中学出身の松岡譲先輩は漱石門下の人で、その夫人は漱石先生の長女である。ヒナゲシを詠った歌人と言えば、与謝野晶子が知られている。シベリア鉄道でウラジオストクから陸路で欧州へ向かったこの情熱の歌人は「君も雛罌粟、われも雛罌粟」と歌った。長岡に縁の深い堀口大學は歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた。九萬一氏と鉄幹氏は友人だったことが大学先輩の回想録に出てくる。この点では与謝野晶子も長岡と縁がある。「虞美人草」の漱石といい、「君も雛罌粟」の与謝野晶子といい、赤いヒナゲシの花をめぐる作品を書いたどちらもが長岡に縁があるのも面白い。与謝野晶子が、雛罌粟の歌を詠んだ時に、愛とプライドのためなら死も怖れない虞美人を意識していたのだろうか?


昭和の時代にもヒナゲシはひたむきな愛を象徴するものとして歌われている。山上路夫が作詞し、森田公一が作曲した「ひなげしの花」をアグネス・チャンが歌っていた。
「愛の想いは胸にあふれそうよ」と遠い街に行った人をしのぶ内容だ。時代は変わっても、人の想いは変わらない。

ユーラシア大陸の反対側に位置する欧州でも、この花は失われた人々の赤い血の連想につながっている。ロンドンでも毎年の戦没者追悼の日には赤いヒナゲシの胸飾りが街にあふれる。第一次世界大戦が1914年に始まり、戦争は4年に及んだ1918年の1111日に連合国側とドイツの休戦協定が発効する。事務所でもデパートでもこの日の11時には、戦没者をしのんで一分間の黙とうをささげるのが習わしだ。2014 年のこの日には開戦から100年を記念して、ロンドン塔の空堀の芝生がセラミックの赤い花で埋め尽くされた。88万人を越えた英国の戦没者の数だけ用意されたものだ。このセラミック花は希望者に販売され、売上げは戦没者・傷痍軍人のためのチャリティに贈られたそうだ。

漱石先生が英国に留学したのは1900年から1902年までの2年間だった。小説「倫敦塔」が発表されたのは1905年で、第一次大戦が始まる前のことになる。小説に描いたロンドン塔の空堀がヒナゲシ(虞美人草)で埋め尽くされるとは、漱石先生も想像しなかっただろう。去年の11月の始めに高校同級生のA君がロンドンに来ていたので一緒に見学する機会があった。この光景は強く印象に残った。




2015年8月12日水曜日

2015年のピンボール・イン・ロンドン 「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」

地下鉄ピカデリーサーカス駅の近くにあるウォーターストーン書店がすごいことになっていた。入ったばかりのメイン・ホールが村上春樹の「風の歌を聴け」と「1973年のピンボール」が背中合わせ(back-to-back) になっている英訳本だらけでいっぱいだ。おまけに特製のムラカミ・ピンボール・マシンが置いてある。記念に触らせてもらおうと思ったが、機械の不調でプレーできなかった。この特別プロモーションが始まってもう一週間くらいになるらしいから、人気がありすぎて機械が壊れたようだ。ロンドンの大型書店では老舗のフォイルズが有名だが、ウォーターストーンは大規模チェーンであちこちにある。このチェーン店のピカデリーサーカス店は、その昔シンプソンズという百貨店だった建物を改装したもので、おそらくロンドン最大の書店だ。著者のサイン会など様々な催しも開かれる場所だ。

村上春樹氏の「海外でもっとも売れている日本の小説家」という地位が確立してから久しい。こちらの世界とあちらの世界が交互に登場する小説の構造と、時折りの過激な描写と、喪われた人に向けて静かに語りかけるテーマは翻訳で読んでもわかり易そうだという気がする。「1973年のピンボール」の方は英語訳を観た記憶があるので米国では紹介済みかも知れない。この作家の、出発期の重要な作品がこれまで英国で未紹介だったのは意外な感じがする。他のほとんどの作品は英訳で紹介済みだ。ウォーターストーン書店のメイン・ホールで英国人らしい女性二人が「あらっ!ムラカミの新しい本だわ」 と手にとっていた。今年の5月に蜷川幸雄演出の「海辺のカフカ」がロンドンで上演された時に、舞台を見ている。客席は日本人よりも現地の人でいっぱいで、上演が終わった時も満場の拍手だった。この舞台の上演で90年代からロンドン公演を続けている「世界のニナガワ」はもちろんだが、「世界のムラカミハルキ」が英国のファンに再認識されたことは間違いないと思う。ヒロイン「佐伯さん」を演じた宮沢りえの透明感には鬼気迫るものがあった。


初期3部作の始めの2作は村上春樹ファンにとっては重要な作品だ。1979年に村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューした年に、わたしは学校を終えて社会人になった。この人の本はそれから読み続けているので長い付き合いだ。好きな作品をわたしなりに3つ選ぶとしたら「風の歌を聴け」、「羊をめぐる冒険」、「国境の南、太陽の西」ということになる。50歳を過ぎた頃から、もう一度村上春樹に興味を持つようになった。仕事で訪ねた様々な国の書店でこの人の本に再会したからだ。ロンドンでも、サンクトペテルブルクでも、スコピエでも、ビシュケクでも村上春樹の本は書店に積まれていた。「ハルキ・ムラカミが好きだ」という知り合いも多い。この根強い人気の理由は何だろうかと考えるようになった。

「羊をめぐる冒険」などいくつかの長編を例にとれば、村上春樹の本には普遍的なテーマと明確な構成がある。あちらとこちらの世界の間で迷いがちな主人公がいて、物語は二つの世界でパラレルに進行する。小説は短い章立てで二つの世界が順番に切り替わる。別の世界への「入り口」として古井戸やら、深い森やら、高速道路の非常階段やらが登場する。主人公は読者を巻き込んで「自分は誰なのか」「自分はどちらに属しているのか」などの疑問の解明するために物を探したり、人を探したりする。想いを残したままこの世を突然去ることになった人々は、あの世でもこの世でもない境界に「不完全な死者」として浮遊している。残された人が突然消え去った人に向ける強い想いが、浮遊する者たちをこちら側の世界に誘い出す。失われた者と残された者が再会できると、ようやく葬送の儀礼が完結するので、思い残すことなくあの世へ旅立つことができる。これらのパターンは多くの長編作品に共通している。この人の本は世界中のあちこちで読まれている。

https://instagram.com/p/6AMy5oCf60/?taken-by=waterstones

2015年7月24日金曜日

芹沢光治良 「人間の運命」

長い間、記憶の奥深くに埋もれていた本だ。わたしと同じく、長岡市栃尾出身のI先輩とワインでも飲みましょうという話になって、ロンドンの金融街シティの中心部にあるロイヤル・エクスチェンジで夕食を楽しみながら、様々な話をしていた。同じ週の月曜日にマークス寿子氏の講演会でもご一緒したばかりなのでその印象を話し合ったり、この秋に日本に帰る予定のわたしのことなどについていろいろ話を聞いてもらったり、聞かされたりしていた。赤ワインのボトル1本が適量で話が弾んだ。その内に二人とも日本にいた頃に読んだ本や、観た映画の話になった。Iさんが「ペンクラブの会長だった人がいたねえ」という話をされた。そこから始まって、二人ともが若い頃に芹沢光治良の「人間の運命」を読んでいることがわかった。わたしにとっては「気になる本」の一冊だったのでびっくりした。

家に帰ってから、幾冊かだけ保存している古い日記を調べてみると、大学一年の夏に読んでいた。当時は戸越銀座に下宿していたので、品川区立図書館で借りて読んだことになる。日記の記事によると7月3日に第1巻「父と子」を読みだして、7月5日に第2巻の「友情」を読み終えている。生まれた家で両親が天理教に帰依し、活動で忙しかったために苦労したこと、おそらくはそういう生活からの脱出の意味もあってひたすら勉強したこと、友だちとの記憶、苦い初恋の記憶など、新潟県の田舎から出てきて大学生になったばかりの自分にとって、他人事とは思えないようなテーマが満載の本で第1,2巻をあっという間にに読んでしまったようだ。


この本は作家の自画像らしき「森次郎」青年が成長し、社会人になってからの話が続いていく大河小説だ。当時の印象では、第3巻から最終巻まで読んであまり感動した記憶がない。少年期から大学生になるまでの話が圧倒的に面白過ぎるからかも知れない。自分の両親が宗教にのめりこみ、否応なしに運命の意味について思いをめぐらす次郎少年、戦前の物語らしく身分違いの恋に苦悩する学生時代、自力で人生を切り開かねばならない緊張感など刺激的な内容の青春物語だった。それに比べると、社会人となり中年に向かう主人公のお役所仕事にも、お見合い結婚にも、優柔不断ぶりにも失望してしまった記憶がある。あれほどに波乱万丈で、ドラマチックだった次郎少年はいったいどこへ行ったのか?大人になるということは退屈な時間を送るということなのか?


おそらくまだ東京に出てきたばかりの18歳の自分にとっては、第1,2巻を我がことのように感じることはできても、社会人になってからの次郎青年の生き方を味わうだけの想像力が欠けていたのだろうと今は思っている。そういう意味では半世紀を生きた今になって読み返すべき本かも知れない。



2015年6月21日日曜日

プーシキンと音楽の関係

ロシアの歌や映画が好きな人はたくさんいる。いつか訪れる時のためにロシア語を勉強したいと思っている人も多い。わたしも仕事で行く機会があったことがきっかけで、チェーホフやブーニンの短編を読んだ。ロシア語の授業の教材だったので、原文と訳文を照らし合わせて読む経験をした。それからロシアの作家や映画に興味を持つようになった。

19世紀前半に活躍してロシア詩壇の黄金時代を築いたアレクサンドル・プーシキンという人がいる。20031月に仲間と訪れたモスクワのトレチャコフ美術館の入り口で、プーシキンの歌曲のCDを売っていた。中身もわからないまま記念に買った。家に帰って聴いてみた。一曲目の「アンナ・ケルンに」のピアノのメロディが気に入り、何の歌なのか知りたいと思ったのがプーシキンとの出会いだ。耳を経由してこの人の世界とめぐり会ったことになる。

1799年にロシアの貴族の家に生まれたこの人は20歳を過ぎた頃にはすでに詩の才能を認められていた。決闘で受けた傷がもとで37歳で亡くなっているが、短い人生にも関わらず多くの仕事を残している。この人の詩集を読むと自由で率直な印象が強い。それがのびやかな恋愛詩として表現された時は良かったが、やがて政府から危険人物とみなされ、1820年にはペテルスブルクから現在のモルドヴァの首都キシニョフに移り住むことを命じられる。


6年後に都に戻るまでの間に「カフカスの虜」を書いたり、都落ちの生活を楽しんでいたようだ。この時期を懐かしむような詩も書いている。「美しい人よ、あなたの歌い出したグルジアの歌を聴いて、懐かしい岸辺と、月明かりの草原と、別れてきた人の面影を思い出してしまった。哀しい思い出につながるその歌はうたわないでください」という意味の詩にラフマニノフが曲をつけた歌曲はよく知られている。この他にもプーシキンの詩が歌われているものはたくさんある。

この人の詩がイメージを喚起する力もすごい。江戸時代の文政の頃の人なのに、多くの詩が今でも瑞々しい。


またたく間に春が過ぎて

しぼんだ薔薇を惜しむことはない
山のふもとの木のつるに
豊かに実った葡萄の房も愛らしい
それは草深いわが谷の美であり
黄金色に輝く秋のよろこびだ
ほっそりと透き通る
乙女の指のように美しい
             (刈谷田川の夢 訳)

遅咲きの野辺の花々は
あでやかな初花よりも愛おしい
過ぎた夢の物悲しさを
より生き生きと呼び覚ます
そんなふうに別れの記憶が
楽しい出会いよりも心に残ることもある
           (刈谷田川の夢 訳)

プーシキンの「小さな悲劇」という本の中には4つの戯曲が入っている。とてもドラマチックでMP3の朗読劇にもなってもいる。群像社から翻訳が出ていたので、聴きながら読めば自然にロシア語がマスターできるはずだというのがわたしのロシア語挑戦時の狙いだったが、世の中思い通りに行かない。ロシア語の道は遠いが諦めるつもりはない。4つの戯曲の中の一つである「石の客」はセビリアを舞台にしたドン・ジュアン (ドン・ファン、ドン・ジョバンニの発音もある)の物語だ。モーツァルトのオペラ「ドン・ジョバンニ」でもよく知られている。もう一つの「モーツアルトとサリエリ」の物語は1984年のミロス・フォアマン監督の映画「アマデウス」でよく知られている。

音楽好きな人はチャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」を思い出すだろう。YouTubeで原作からの「タチアナの手紙」を聴くと、言葉がわからなくても訴えるものがある。岩波文庫に訳があるので、意味はそちらで理解すればいい。異国の言葉を理解したいという気持ちになる点ではこの人の韻文はすごい力を持っている。2014年7月に英国グラインドボーンにこのオペラを観に行った。知る人ぞ知る英国の夏の音楽祭だ。ロンドンから鉄道だと一時間くらいかかる場所で開かれる夏のコンサートは、ダイニング・インタバルと呼ばれる幕間が長く取ってあり、その間に花が咲き乱れる公園を眺めながらピクニックをすることになっている。ブラックタイの正装が暗黙のルールとなっている。シャンパンと赤ワインを合計7人の参加者が持ち寄った。この英字幕付きのオペラは最高に面白かった。ロンドン・フィルの演奏を指揮した気鋭の若手指揮者のことを英ガーディアン紙の評者が絶賛していた。いつか再訪してみたい。







2015年6月17日水曜日

山田太一 「日本の面影 ラフカディオ・ハーンの世界」

NHKドラマになった物語の脚本だ。とても面白い。1984年に刊行された本が、岩波現代文庫に入っている。アイルランド人の英軍の軍医とギリシャ人の母の間に生まれたラフカディオ・ハーンは1850年にギリシャで生まれた。2歳の時に一家はダブリンに移る。4歳の時に母はギリシャに戻ってしまい、その数年後に離婚する。16歳の時に事故で左目を失明し、同じ年に父がインドからの帰国途中に病没する。19歳の時に渡米し、各地を転々とした後、24歳から新聞記者として仕事をするようになる。27歳の時にニュー・オーリンズに移り住む。

34歳の時にニューオーリンズ百年記念の博覧会で日本人に出会うところから、この物語は始まる。この時に博覧会に来ていた日本政府の代表団のメンバーと知り合い古事記の物語を聞く。「イザナギとイザナミ」の話を聞いて、ギリシャ神話「オルフェウスとエウリュディケ」との共通性を感じ、日本に興味を持つ。


40歳の春に日本を訪れる。この年の9月から、松江で旧制中学と師範学校の英語教師となる。出雲大社を訪れて日本の古代信仰に触れ、日本人の魂が古代ギリシャ人の精神に似ているという印象を持つ。熊本の五高に3年勤務した後、神戸に移る。46歳で日本に帰化し小泉八雲となる。この年に東京帝大の講師となり英文学を教える。54歳で「怪談」を出版。この年の9月、狭心症により永眠。


ニューオーリンズで古事記のイザナギ・イザナミの物語を教えてくれた日本人を始めとして、松江での小泉せつ夫人との出会いなどによりラフカディオ・ハーンが大きな感化を受けていく様子が生き生きとした会話劇として描かれている。爽やかな読後感の残る本だ

2015年6月9日火曜日

吉田健一 「英国に就て」 を読んだことがありますか?

英文学者の吉田健一の書いた「英国に就て」 (ちくま学芸文庫)というとても面白い英国案内を読んだ。1974年の本だが、文庫に入ったのが2015年2月でまだ新しい。ピカディリーにある日本の書店で見つけた。この本は英国の文化と自然についての優れた随筆集だ。古き良き英国の観光案内としても読み応えがある。32の随筆が収められているので興味のある部分だけ拾い読みするつもりでいたが、面白いので全部読んでしまった。印象に残った4つのエッセイについて紹介してみたい。

「英国の四季」というエッセイがある。「四月になれば英国でももう冬とは思えない日が多くなるが、それでもエリオットは例の「荒地」で、四月は残酷な月だとこぼしている。冬でもないし、はっきり春でもないからという意味らしくて、まず英国の四月はそんな感じがするものである。」 さらに英国の春がとても短いことについて、「英国では春が来ると、すぐに夏、或いは少なくとも、英国の夏になる。確実に春になるのが五月で、五月から英国では夏の最中になっている六月まではすぐである。」と書いてある。わたしは二匹の犬を連れて朝夕と散歩をするので、この雰囲気はよくわかる。

「ロンドンの公園めぐり」というエッセイも何故ロンドンには緑が多いのかを理解する上で必読だ。この中に「テエムス河の上流はすべてロンドン市民の公園になっているとも言えるので、これくらい美しい河は世界中にないという感じが少なくともする。」、「郊外の公園で有名なのの幾つかも、テエムス河の沿岸にある。」という指摘がある。キューガーデンズとリッチモンド・パークが紹介されているのがうれしい。どちらもわたしが住んでいるチズイックに近い。わたしもテムズ川とその周辺の公園の魅力に取りつかれて、散歩の風景や水鳥や植物の写真を撮るようになった。


「英国の景色」というエッセイは英文学者としての吉田氏のセンスが光る名文だ。この人は厳しい冬が終わって、初夏が訪れる五月六月の様子について次のように書いている。「。。。冬とは反対の意味でこれもやはり、人間の世界ではない気がした。余りにも豪奢で、むせ返るような活気に満ちた光景なのである。だからその頂点まで行けば、その先には、死の予感しかない。哀愁などというものではなくて、死にたくなるか、自分が地上に生きている喜びに酔いしれるか、そのどっちかなのである。」 この人はシェークスピアを例にあげて「ロミオとジュリエット」でも、十四行詩であるソネット集の中の数編でも、「蛆虫とか、土とか、骸骨とか」とても具体的な死のイメージが繰り返し出てくることを説明している。

「英国のビイル」というエッセイは「日本では夏はビイル、冬は日本酒という人が多いが、英国では冬でも夏でもビイルを飲む。」という文章で始まる「秋の昼に似たロンドンの夏の晩に(ビイルを)飲んでいる気持が今でも忘れられない。」とあるが、英国の夏の夕べのすごし易さは本当にその通りだ。この中に、小説家の堀辰雄が「狐の手袋」という随筆集を出していたことが紹介されている。この花は名前も面白いが、不思議な色と形をしている。「ジギタリス」が植物図鑑に載っている名前だ。ラテン語で指の意味があるそうだ。そこから英語では一般にfox gloveと呼ばれるようになり、これが日本語に直訳されている。美しい花なので観賞用だが、強心剤としても効果があるので薬用にも栽培されているそうだ。この花の全体に猛毒があるそうだが、夏には公園でよく見かける花だ。









2015年6月3日水曜日

司馬遼太郎「台湾紀行」と河井継之助のこと

司馬遼太郎は1971年、47歳の時に週刊朝日に「街道をゆく」シリーズを書き始め、1996年に急逝するまで書き続けた。そのつど出版された単行本は43冊になる。この40冊目が1994年に刊行された「台湾紀行」だ。この新聞記者出身の小説家を知ったのは実家の兄の本棚からである。「龍馬がゆく」が1968年にNHKの大河ドラマとなり、たいへんな人気だった。新潟県の田舎の私の家でも兄が司馬遼太郎の本を愛読していた。この頃「龍馬がゆく」、「国盗り物語」、「峠」などをわたしも読んだが、こちらは中学一年生くらいだったせいか、あまりピンとこなかった記憶がある。

1986年の夏から2年間、アメリカに住むことになって、その前年くらいから書店に行くと参考になるような本を物色していた。それで見つけたのが、この人が1985年に2度にわたってアメリカを旅行した経験をまとめた「アメリカ素描」だった。この時は自分が初めての海外生活を控えていたこともあり、一行一行を真剣に読んだ。その観察の細かさと何とも言いがたい哀調のあるおだやかな文章が印象的だった。わたしはこの時から司馬遼太郎のファンになり、この人の書いた紀行文や文明批評に興味を持つようになった。


その後、1991年から現在まで続いている海外暮らしの中で、この人が近代の日本について書いた文章に注目するようになった。そして読んだのが文春文庫全8巻の「坂の上の雲」だ。これは読み応えがあった。さらに司馬氏が中国やモンゴルなどアジアについて書いたものもフォローした。これには自分が中央アジアで仕事をするようになったことが影響している。わたしの経験では、司馬氏の本は空想による物語よりも、緻密な取材の結果をもとにあれこれと分析が挿入された紀行や随筆が圧倒的に面白い。そう考えると中学生の時にこの人の大河ドラマの原作本に興味がなかったことも納得できそうだ。


「台湾紀行」に話を戻すと、2011年に仕事で台湾に行く機会があったのでこの本を興味深く読んだ。この本の中の「山人の怒り」という章については別にブログを書いてみた。日本統治時代に起きたセデック族による反乱である1930年の霧社事件や、侯孝賢監督の映画「悲情城市」(1989年)で描かれた第二次大戦後の移行期に起きた1947年の二・二八事件など、台湾の歴史と、それに日本の統治が与えた影響についての司馬氏の考察はとても参考になる。この本が注目されるのは、巻末に当時台湾のトップであった李登輝総統との会談録が付いていることだ。その結びに司馬氏は以下のように書いている。

  • 「幕末、越後の長岡藩に河井継之助という家老がいました。。(中略)。。徳川にも関係なく、薩摩・長州にも関係なく、武装中立でいこうとした。しかし時代の暴力的な流れに押し流されてしまう。日本史の一大損失でした」。
  • 「この時代、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一に近い - 坂本龍馬も持ちましたが - 人物だったのに、歴史は彼を忘れてしまっている」。
  • 「台湾の運命がそうならないように、むしろ台湾が人類のモデルになるように、(「台湾紀行」を)書きながらいつもそう思っていました」。
司馬氏は河井継之助を主人公とする「峠」という小説も書いている。よほどこの長岡藩の家老が気に入っていたようだ。長岡はわたしが生まれた土地なので、河井継之助は同郷の大先輩にあたる。司馬氏の絶賛に近い河井評にも関わらず、地元では長岡を戦火に巻き込むことを回避し損なった責任者として恨みに思っていた人も多いらしい。長岡出身の父を持つ詩人堀口大學氏によれば、戊辰戦争で夫を亡くし子供を抱えて苦労したお祖母さんは河井継之助についてかなり批判的だったそうだ。このエピソードは関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」の中に出てくる。堀口大學氏は東京本郷生まれだが、新潟県立長岡高校の前身である旧制長岡中学を卒業している。堀口先輩については別にブログを書いている。

長岡高校の応援歌「出塞賦」にも河井継之助は登場する。蒼龍窟は河井継之助の号である。

 「嗚呼黎明来る 黎明来る 暁の鐘殷々と 
  兜城下に鳴り響く 門出の朝祝ふかな 

  かの蒼龍が志を受けて 忍苦まさに幾星霜 
  必勝の意気胸にして 進み出ずる柏葉門」





2015年5月22日金曜日

車谷長吉の3冊の本 「忌中」、「赤目四十八瀧心中未遂」、「妖談」

車谷長吉氏がご逝去された。ご冥福をお祈り申し上げます。1998年(平成十年)に直木賞を受賞した「赤目四十八瀧心中未遂」以来、とても気になる人だった。その当時、ロンドンに住んでいた。新聞で取り上げられていたこの本が気になって日本から送ってもらって読んだ。この物語は映画化され、主演女優寺島しのぶの出世作となった。この人はその後も「忌中」(2003年)、「妖談」(2010年)など不思議な迫力に満ちた小説を書き続けた。

「忌中」という短編集の中に「古墳の話」という短編がある。冒頭の文章が変わっている。「私ども夫婦は、平成五年十月十七日に結婚した。わたしは四十八歳、嫁はんは四十九歳、ともに初婚だった。平成十四年十月十七日は。九回目の結婚記念日だった。。。」。この短編は、初めて別々に過ごした2002年の結婚記念日に、高校時代に無残な死をとげた友人の霊を慰めるために、郷里の古墳に登る話だ。この短編の中で、「大学2年の夏休みに突然、将来は文士になって哀悼の小説を書こう、という考えに取りつかれ、独文科へ進級した」という文章がある。古墳が好きでそれまでは考古学を学ぶことを考えていたそうだ。


「嫁はん」である詩人の高橋順子氏は1997年12月に「鬼の雪隠」(高橋順子詩集 思潮社現代詩文庫)という文章を書いた。強迫神経症を病んでいる「連れ合い」に、石舞台などの古墳のある風景を見せたくて、明日香村を訪ねた時の文章だ。「連れ合いは虚無的なものに傾斜しがちな人だが、生のほうにも強く手をかけている人である。振幅が大きい。その人と、主人公たちの死に絶えた村を歩いてみたかった。そこから立ち上がってくるものがあれば、わたしたちは救われるような気が、少なくとも私はしたのである。」 高橋順子氏は詩人専業となる前は編集者だった。自分の「連れ合い」となったこの小説家をよくよく理解していたことがうかがい知れる文章だ。


高橋順子氏の詩集「貧乏な椅子」(2000年花神社)に「天狗」という詩がある。

              
   「結婚五年目にしてわたしたちには
    すでに失われた懐かしい家がある
    その家の二階でつれあいはワード・プロセッサーを打ちつつけ
    心中物の小説を書いていた。。。」
      (以下略 「高橋順子詩集 思潮社現代詩文庫)


この小説が「赤目四十八瀧心中未遂」であることは間違いなさそうだ。鬼気迫る本だった。主人公は作家になりたくて、東京のサラリーマン生活を投げ捨てる。ほめてくれる雑誌編集者もいたので何とかなると思っていたのが、実際に作家志望専業になった途端に生活に困ってしまう。母親も息子に愛想を尽かす。「他人様は上手いことを言うだろうよ。お前に小説が書けようが書けまいが他人事だから。お前が野たれ死にしようがしまいがどうだっていいさ。それを真に受けてどうする。」  この辺りの苦しい記憶が繰り返し登場する初期の短編集はどれも凄い。


この小説の主人公は、仕事を転々として、やがて大阪尼ヶ崎のアパートの一室でひたすらモツ肉の串を刺し続けることになる。この本を読んだ時は、わたしも日本の会社員生活に区切りをつけて海外で仕事をするようになってから8年目だった。異国の言葉を話す人たちに囲まれながら、朝から晩までデスクトップの前に座ってプロジェクト報告をまとめる作業に追われながら暮らしていた。同じような「異域」に住む主人公に感情移入した。都市に埋没して生きる疎外感と、あてのない漂流感覚を描いたこの本は傑作だ。偶然のように怪しげな場所に居つくようになること、それまでの葛藤から解放されてその場所の居心地がいいこと、不思議な魅力の女が登場してくることの3点で安部公房の「砂の女」を連想させるが、「赤目四十八瀧心中未遂」を際立たせているのはその緊迫した情念の強さだ。


「妖談」という2010年の作品がまた変わっている。この本には、34編の小説とも随筆ともつかないとても短い作品が収められている。「駒込千駄木町」、「ある精神科医」、「読売新聞配達員」という題の3つの話の中に、主人公が48歳の時に49歳の女性と結婚したこと、30代の時に京阪神の各地で料理屋の下働きをしたことが繰り返しのように出て来る。そしてそのどれもが何とも言えない妖しげな雰囲気を醸し出す。この3つの掌編を読むと「赤目四十八瀧心中未遂」に描かれている30代からの漂流経験と、その後48歳になって自分を理解できる「嫁はん」を得たことが、この小説家にとっていかに大きな事件であったかがわかる。合掌。



2015年5月9日土曜日

イザベラ植物園のシャクナゲと井上靖の思い出

井上靖の小説を10代の頃に読んでとても好きだった。中学生の国語の教科書で読んだ「しろばんば」がしみじみとしている。高校生になってからも「夏草冬濤」、「北の海」など、この人の本を読み続けた。散文詩集も読んだ。「比良のシャクナゲ」もその頃読んだ記憶がある。同じ題名の短編小説もある。よほどこの花の情景が気に入ったのだろう。1990年代から仕事で中央アジアやコーカサスの国を訪ねたり、駐在勤務をした時に井上靖に「再会」したのも懐かしい記憶だ。この人はシルクロードや西域を舞台にした散文詩や小説を数多く書いている。「崑崙の玉」(文春文庫)というキルギスや西域を舞台にした短編集を、それらの小説の舞台となった場所で読んでいると思うと味わい深いものがあった。

12年にわたって3つの途上国での駐在勤務を続けた後で、ロンドンの本部に戻った。50代の半ばになっていた。「石楠花」と書くこの花を実際に見たのはそれからだ。ロンドンの南西部にある広大なリッチモンド公園の中にイザベラ植物園という秘密の森みたいな場所がある。4月の末から5月の間だけつつじとシャクナゲの見事な開花を観ることができる。「大きなつつじが木の上の方に咲いている」と怪訝に思ったのがシャクナゲだった。

井上靖は医者の家に生まれた。お父さんがあちこちに転勤があったことと、兄弟が多くて大変だったことなどで、祖父の後妻であった人に預けられて育ったそうだ。「しろばんば」という自伝的な小説の世界だ。このお祖母さんは井上靖をとても可愛がり、短期の予定で預かった幼子の井上靖をその後も手離さなかったそうだ。自分が寂しいこともあっただろう。井上靖としては、自分だけが親と離れて育てられたことがわだかまりになったらしい。ありそうな話だ。わたし自身にも、わたしの周辺にも思い当たることがある。その昔は「家の都合」で似たようなことは頻繁に起きたらしい。

この人の小説も、散文詩のような静けさと孤独感が特徴だ。実の両親と育ててくれた血のつながっていないお祖母さんの間に挟まれる形で子供時代を過ごした結果として、この小説家が人間関係を煩わしく思うようになったとしても不思議ではない。そうした厭世的な感覚が、井上靖の作品には色濃い。この人は、やがて中国や、モンゴルや、西域作品を書くようになり、自分の生まれた土地を離れて漂泊する魂の物語を書き続けることになる。

「比良のシャクナゲ」は大学を出て、新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の作品だ。勤め人としての鬱屈や疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出すという詩だ。そういう思いを抱いてから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。比良の山々はこの詩人の心の中に存在していたのだろう。ぽっかりと心が明るくなるような詩だ。

比良のシャクナゲ
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"
の写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のよう
な湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高
く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおお
っていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆ
られ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろ
うことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤
独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと──
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に描く機会は私に多
くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の
群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、
その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひ
たすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下
界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なほ猥雑なくだ
らぬものに思えてくるのであった。
  (「井上靖全詩集」井上靖 新潮文庫)