2015年12月12日土曜日

村上春樹 「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」

去年の暮れに帰省した時に買って積んだままだった「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」を読み終えた。「風の歌を聴け」以来、「羊をめぐる冒険」、「ノルウェイの森」、「国境の南、太陽の西」あたりまでは新作を楽しみにしていた。熱いファン時代を20数年すごしてから少し冷静になった。その後の話題作は、書店で手にとってチェックしても、買わないこともあった。過去の作品世界以上のものに出会えると思えなかったからだと思う。そのくらい村上春樹は気になる人だ。

去年くらいから3冊ほど読んだのは他の人との話の中に出てきたから。「1Q84」はいつもはミステリーや犯罪捜査物しか読まないつれあいが読んでいたので、何ごとが起きているのかと興味を持った。この作品は面白かった。ダブル主演ともいうべきメインのキャラクターの両方が魅力的で、「1人の主人公が2つの世界を行き来する」村上作品のパターンを越えた感じがした。「海辺のカフカ」はFB友だちのRさんの「この作品をどう思うか?」という質問がきっかけだった。この作品を読んだ後で、今年の秋の宮沢りえ主演の蜷川版「海辺のカフカ」ロンドン公演を観る機会があった。原作と舞台を比較することが出来たのは貴重な経験だった。

今回「巡礼の年」を読んだのは今年になってから高校同窓のOさんに2度ほど強く勧められたのが理由だった。とても面白かったが、複雑な気持ちになった。登場する人物たちが、それぞれに過去の作品の登場人物を思い出させる部分があって、同窓会みたいな感じがした。
わたしは村上春樹の初期3部作に強い思い入れがある。村上春樹が若い時に書いた作品の世界をふくらませて、年を重ねて様々な変奏の試みを行っていることはとても興味深いし、どの作品も面白い。


主人公の「つくる」は学生時代の仲良し5人組から突然、理由も知らされないまま「排除」された経験を持つ30代の青年だ。この喪失の痛みと排除される哀しみは「ノルウェイの森」で仲良し3人組の一人だった主人公が、まずその一人である友人が自殺することを経験し、残されたメンバーの片割れである直子にも同じように向こう側に去られてしまう部分と共通している。この喪失感は「国境の南 太陽の西」で、小学生だった頃に島本さんとの幸福な時間を共有していた主人公が、彼女の引っ越しの後で経験した感情ともよく似ている。「巡礼の年」が「ノルウェイの森」と「国境の南 太陽の西」の変奏曲だとすれば、面白くないはずがない。

「巡礼の年」というタイトルが凄い。この物語は16年前に自分が遭遇した事態におびえ、おそらくは自分を守る最小限の方法としてその記憶を封印して生きてきた主人公が、いったい何が起きたのかについて知るべきだと決意し、「地獄めぐり」をする話とも言える。その意味では謎解き小説の形にもなっている。面白いのは、長いあいだ避けてきた過去と向き合う作業の必要性について主人公を説得するのが、ようやく主人公が心を開いてつき合えそうだと感じる新しい女友だちであることだ。この「巡礼の年」の「沙羅」が主人公に語りかける台詞のいくつかは「ノルウェイの森」の「みどり」をそのまま連想させる。彼女たちはそれぞれの主人公にとっては再生の希望を象徴する存在だが、「地獄」を経験した主人公たちをそのまま受け入れるのではなくて、彼らに自らの過去と向き合うことを要求し、きちんとした選択を迫るところが共通だ。

主人公が「巡礼」の旅を始めて、最初に知ることになるのが、かつての5人組の中でとても魅力的だった「シロ」というニックネームで呼ばれた女ともだちが、ほとんど不可知な形で「崩壊」していったことだった。このエピソードが「巡礼物語」の根幹をなしているのだが、その「崩壊した可憐な娘」の描写が、「国境の南 太陽の西」の中に出てくる「イズミ」のイメージそのままでびっくりした。

「巡礼」の旅を続けてヘルシンキまで旅した主人公は、とうとう16年前に起きた「排除」事件の全貌を知ることになる。その理由となったある出来事について主人公が知らされなかったことと、それで深く傷ついたことはとても気の毒だ。ところが、そのことについて主たる責めを負うべき人について、主人公がなにやら罪の意識を感じてしまうことがこの小説の最大の主題なのだと思う。何が真実で、何が虚構だったのか?誰が加害者で、誰が被害者だったのか?この最終部分を読んで「海辺のカフカ」でこの小説家が「雨月物語」や「源氏物語」を引用しながら、「夢」と「生霊」について語っていたことを思い出した。


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