生まれて初めて飛行機に乗って太平洋を横切ったのは1986年の夏だ。あれから29年になる。3年がかりで海外留学の準備をして、なんとか会社の派遣制度に合格した時は嬉しかった。大学院は秋から始まるのに、夏から派遣されたのには理由がある。会社としてもリクルート対策やら何やらで社員を派遣する以上は何とか落第せずに無事に大学院の課程を修了してもらいたい。ところが帰国子女でもない限り、仕事のかたわらでTOEFL、GRE、GMATなどの留学準備はなんとか間に合わせたとしても、自由に討論し、意のままに文章が書けるというレベルには程遠い。それで企業派遣留学の場合、大学院の始まる前に語学研修を受けることになっていた。今はどうかは知らない。
英語研修は6月からの8週間だった。研修地を選ぶことができたので米国東海岸のニューヘイブンにあるイェール大学の夏季講座を選んだ。秋からはフィラデルフィアなので、まったく同じ場所だとつまらないが東海岸の雰囲気に慣れておきたかった。夏の間にニューヨークにも時々は行きたいと思っていた。この英語研修プログラムはよく出来ていた。毎回作文を提出する授業と、時事ニュースなどを読みながらの会話の授業、課題図書を読んで感想を議論する授業があり、各授業ごとにレベル別のクラス編成だった。かなりの量の宿題が出た。こちらも秋以降のサバイバルが心配だったので、夜は図書館で身を入れて予習をした。
その時の課題図書の一冊がナサニエル・ホーソーンの「若いグッドマン・ブラウン」だ。読んでから授業に出たはずだが、どこが面白いのかピンとこなかった。これは必ずしも英語力の問題ではないと思う。同じ授業で使われた「グレイト・ギャツビー」は一行、一行真剣に読んだのですっかりスコット・フィツジェラルドが好きになった。海外の小説を原語で読むのがいつも良いというわけではない。優れた翻訳がある場合には速度についても、印象の強さについても圧倒的に有利なことが多い。さらに言えば世界には他の言語もたくさんあるから、すべてを原語で読むなんてことは不可能だ。ただし辞書を引きながら原文をゆっくり読む経験は無駄にはならない。好きな作品にぶつかった場合などはとても貴重な経験をすることになる。
「若いグッドマン・ブラウン」がずーと心に残っていたのは理由がある。同じクラスにYさんというとても素敵な人がいた。建築の勉強をしているご主人に同行して、ニューヘイブンに住んでいる女性だった。先生が「さて、この物語を読んでどんなことを感じましたか?」という質問で始まった議論の最後に、Yさんが手を挙げた。「この物語は、若者の通過儀礼(initiation) がテーマになっていると思います。」 わたしを含む10数人の他の生徒はポカンとしていた。先生は「自分がその教材を選んだ気持ちを理解できる生徒がいてくれて嬉しい」と言わんばかりの満面の笑みでYさんの発言に耳を傾けていた。
58歳になった自分がホーソーンの短編集を再び手にしたのは、ロシアの小説家がホーソーンの「ラパチーニの娘」という短編を基にして、「毒の園」という小説を書いたという記事を読んで、どう違うのか調べてみたいと思ったからだった。面白かったのでこの比較についてはブログを書いた。この短編集で「若いグッドマン・ブラウン」を読み、「僕の親戚モリノー少佐」を読むとこの小説家が「通過儀礼」というテーマに興味を持っていたことが良く理解できる。1986年の夏のYさんのことを思い出した。今も元気だろうか。
さらに「ブルフロッグ夫人」、「痣」、「ウェイクフィールド」を読むと、この小説家が自分と他者との関わりに強い関心を持っていたことが明らかだ。「ラパチーニの娘」という薬草園に住む美女に若者が恋をする話もその延長線上にある。この小説は怪奇小説として分類されているが、他者との関係性についての考察をした小説と読むのが本筋だろう。その点では「痣」という作品とも共通している。薬草園のある屋敷で美女は静かに暮らしていた。その薬草成分がこの美女の身体にしみ込んでしまう。それはそれで自然なことで特段の不都合はなかった。ところが隣りに越してきた若者と恋に落ちた途端に、この薬草成分が他者にとっては猛毒であることが問題となる。毒のある美しい花、棘のある美しい花は人間関係にとっても深い示唆を含むテーマであるような気がする。
英語研修は6月からの8週間だった。研修地を選ぶことができたので米国東海岸のニューヘイブンにあるイェール大学の夏季講座を選んだ。秋からはフィラデルフィアなので、まったく同じ場所だとつまらないが東海岸の雰囲気に慣れておきたかった。夏の間にニューヨークにも時々は行きたいと思っていた。この英語研修プログラムはよく出来ていた。毎回作文を提出する授業と、時事ニュースなどを読みながらの会話の授業、課題図書を読んで感想を議論する授業があり、各授業ごとにレベル別のクラス編成だった。かなりの量の宿題が出た。こちらも秋以降のサバイバルが心配だったので、夜は図書館で身を入れて予習をした。
その時の課題図書の一冊がナサニエル・ホーソーンの「若いグッドマン・ブラウン」だ。読んでから授業に出たはずだが、どこが面白いのかピンとこなかった。これは必ずしも英語力の問題ではないと思う。同じ授業で使われた「グレイト・ギャツビー」は一行、一行真剣に読んだのですっかりスコット・フィツジェラルドが好きになった。海外の小説を原語で読むのがいつも良いというわけではない。優れた翻訳がある場合には速度についても、印象の強さについても圧倒的に有利なことが多い。さらに言えば世界には他の言語もたくさんあるから、すべてを原語で読むなんてことは不可能だ。ただし辞書を引きながら原文をゆっくり読む経験は無駄にはならない。好きな作品にぶつかった場合などはとても貴重な経験をすることになる。
「若いグッドマン・ブラウン」がずーと心に残っていたのは理由がある。同じクラスにYさんというとても素敵な人がいた。建築の勉強をしているご主人に同行して、ニューヘイブンに住んでいる女性だった。先生が「さて、この物語を読んでどんなことを感じましたか?」という質問で始まった議論の最後に、Yさんが手を挙げた。「この物語は、若者の通過儀礼(initiation) がテーマになっていると思います。」 わたしを含む10数人の他の生徒はポカンとしていた。先生は「自分がその教材を選んだ気持ちを理解できる生徒がいてくれて嬉しい」と言わんばかりの満面の笑みでYさんの発言に耳を傾けていた。
58歳になった自分がホーソーンの短編集を再び手にしたのは、ロシアの小説家がホーソーンの「ラパチーニの娘」という短編を基にして、「毒の園」という小説を書いたという記事を読んで、どう違うのか調べてみたいと思ったからだった。面白かったのでこの比較についてはブログを書いた。この短編集で「若いグッドマン・ブラウン」を読み、「僕の親戚モリノー少佐」を読むとこの小説家が「通過儀礼」というテーマに興味を持っていたことが良く理解できる。1986年の夏のYさんのことを思い出した。今も元気だろうか。
さらに「ブルフロッグ夫人」、「痣」、「ウェイクフィールド」を読むと、この小説家が自分と他者との関わりに強い関心を持っていたことが明らかだ。「ラパチーニの娘」という薬草園に住む美女に若者が恋をする話もその延長線上にある。この小説は怪奇小説として分類されているが、他者との関係性についての考察をした小説と読むのが本筋だろう。その点では「痣」という作品とも共通している。薬草園のある屋敷で美女は静かに暮らしていた。その薬草成分がこの美女の身体にしみ込んでしまう。それはそれで自然なことで特段の不都合はなかった。ところが隣りに越してきた若者と恋に落ちた途端に、この薬草成分が他者にとっては猛毒であることが問題となる。毒のある美しい花、棘のある美しい花は人間関係にとっても深い示唆を含むテーマであるような気がする。
ツクバトリカブト
狐の手袋(ジギタリス)
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