夏目漱石の小説「虞美人草」に、主人公で京都から東京へ出てきた青年が、かつて世話になって恩義のある井上老人から手紙をもらう場面がある。「拝啓柳暗花明の好時節と相成候処いよいよ御壮健奉賀候(がしたてまつりそうろう)。」ここで使われている柳暗花明は「春の景色が美しい様子」という意味で、昔は時候の挨拶によく使われたようだ。ところがこの青年の心境はのどかな春の気分からは程遠い。恩人の先生の娘を嫁にもらうのが正しい選択と考えつつも、古臭いしがらみに縛られるようで億劫な気がして、板挟みの状態にある。東京という新しい天地で出会ったプライドの強い近代的な女性にも魅かれてしまう。この状況を描いた小説の題名が「四面楚歌」とも関わりのある「虞美人草」となるのは大げさな気もするが、昔の人間関係というのはややこしいものだったのだろうと想像できる。
虞美人草はケシ科の一年草であるヒナゲシの別名だ。麻薬の原料となるケシは越年草で背も高い。英語ではどちらもポピーとなる。漢字で雛罌粟と書く。この読み方としてはヒナゲシもコクリコもある。四面楚歌の状況に追い込まれた覇王項羽は「虞や、虞や、汝を如何せん」と思案にくれる。敗色の濃い戦の前線での話である。武人としては残りの手勢を率いて退路を切り開く仕事に女人を連れて行くわけにもいかないが、虞美人を残していけば敵軍の戦利品となるのは目に見えている。虞美人は味方の足手まといになることも、敵将の虜となることも良しとせず、自死を選ぶ。その墓に咲いた赤い花が虞美人草と呼ばれるようになったそうだ。
夏目漱石は郷里長岡に縁のある人だ。長岡中学出身の松岡譲先輩は漱石門下の人で、その夫人は漱石先生の長女である。ヒナゲシを詠った歌人と言えば、与謝野晶子が知られている。シベリア鉄道でウラジオストクから陸路で欧州へ向かったこの情熱の歌人は「君も雛罌粟、われも雛罌粟」と歌った。長岡に縁の深い堀口大學は歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた。九萬一氏と鉄幹氏は友人だったことが大学先輩の回想録に出てくる。この点では与謝野晶子も長岡と縁がある。「虞美人草」の漱石といい、「君も雛罌粟」の与謝野晶子といい、赤いヒナゲシの花をめぐる作品を書いたどちらもが長岡に縁があるのも面白い。与謝野晶子が、雛罌粟の歌を詠んだ時に、愛とプライドのためなら死も怖れない虞美人を意識していたのだろうか?
昭和の時代にもヒナゲシはひたむきな愛を象徴するものとして歌われている。山上路夫が作詞し、森田公一が作曲した「ひなげしの花」をアグネス・チャンが歌っていた。「愛の想いは胸にあふれそうよ」と遠い街に行った人をしのぶ内容だ。時代は変わっても、人の想いは変わらない。
ユーラシア大陸の反対側に位置する欧州でも、この花は失われた人々の赤い血の連想につながっている。ロンドンでも毎年の戦没者追悼の日には赤いヒナゲシの胸飾りが街にあふれる。第一次世界大戦が1914年に始まり、戦争は4年に及んだ。1918年の11月11日に連合国側とドイツの休戦協定が発効する。事務所でもデパートでもこの日の11時には、戦没者をしのんで一分間の黙とうをささげるのが習わしだ。2014 年のこの日には開戦から100年を記念して、ロンドン塔の空堀の芝生がセラミックの赤い花で埋め尽くされた。88万人を越えた英国の戦没者の数だけ用意されたものだ。このセラミック花は希望者に販売され、売上げは戦没者・傷痍軍人のためのチャリティに贈られたそうだ。
漱石先生が英国に留学したのは1900年から1902年までの2年間だった。小説「倫敦塔」が発表されたのは1905年で、第一次大戦が始まる前のことになる。小説に描いたロンドン塔の空堀がヒナゲシ(虞美人草)で埋め尽くされるとは、漱石先生も想像しなかっただろう。去年の11月の始めに高校同級生のA君がロンドンに来ていたので一緒に見学する機会があった。この光景は強く印象に残った。
虞美人草はケシ科の一年草であるヒナゲシの別名だ。麻薬の原料となるケシは越年草で背も高い。英語ではどちらもポピーとなる。漢字で雛罌粟と書く。この読み方としてはヒナゲシもコクリコもある。四面楚歌の状況に追い込まれた覇王項羽は「虞や、虞や、汝を如何せん」と思案にくれる。敗色の濃い戦の前線での話である。武人としては残りの手勢を率いて退路を切り開く仕事に女人を連れて行くわけにもいかないが、虞美人を残していけば敵軍の戦利品となるのは目に見えている。虞美人は味方の足手まといになることも、敵将の虜となることも良しとせず、自死を選ぶ。その墓に咲いた赤い花が虞美人草と呼ばれるようになったそうだ。
夏目漱石は郷里長岡に縁のある人だ。長岡中学出身の松岡譲先輩は漱石門下の人で、その夫人は漱石先生の長女である。ヒナゲシを詠った歌人と言えば、与謝野晶子が知られている。シベリア鉄道でウラジオストクから陸路で欧州へ向かったこの情熱の歌人は「君も雛罌粟、われも雛罌粟」と歌った。長岡に縁の深い堀口大學は歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹・晶子夫妻の新詩社に出入りしていた。九萬一氏と鉄幹氏は友人だったことが大学先輩の回想録に出てくる。この点では与謝野晶子も長岡と縁がある。「虞美人草」の漱石といい、「君も雛罌粟」の与謝野晶子といい、赤いヒナゲシの花をめぐる作品を書いたどちらもが長岡に縁があるのも面白い。与謝野晶子が、雛罌粟の歌を詠んだ時に、愛とプライドのためなら死も怖れない虞美人を意識していたのだろうか?
昭和の時代にもヒナゲシはひたむきな愛を象徴するものとして歌われている。山上路夫が作詞し、森田公一が作曲した「ひなげしの花」をアグネス・チャンが歌っていた。「愛の想いは胸にあふれそうよ」と遠い街に行った人をしのぶ内容だ。時代は変わっても、人の想いは変わらない。
ユーラシア大陸の反対側に位置する欧州でも、この花は失われた人々の赤い血の連想につながっている。ロンドンでも毎年の戦没者追悼の日には赤いヒナゲシの胸飾りが街にあふれる。第一次世界大戦が1914年に始まり、戦争は4年に及んだ。1918年の11月11日に連合国側とドイツの休戦協定が発効する。事務所でもデパートでもこの日の11時には、戦没者をしのんで一分間の黙とうをささげるのが習わしだ。2014 年のこの日には開戦から100年を記念して、ロンドン塔の空堀の芝生がセラミックの赤い花で埋め尽くされた。88万人を越えた英国の戦没者の数だけ用意されたものだ。このセラミック花は希望者に販売され、売上げは戦没者・傷痍軍人のためのチャリティに贈られたそうだ。
漱石先生が英国に留学したのは1900年から1902年までの2年間だった。小説「倫敦塔」が発表されたのは1905年で、第一次大戦が始まる前のことになる。小説に描いたロンドン塔の空堀がヒナゲシ(虞美人草)で埋め尽くされるとは、漱石先生も想像しなかっただろう。去年の11月の始めに高校同級生のA君がロンドンに来ていたので一緒に見学する機会があった。この光景は強く印象に残った。