2016年12月31日土曜日

高井有一「立原正秋」

この秋に高井有一氏がご逝去されたことをニュースで知り、Amazonで同氏による評伝「立原正秋」を取り寄せた。Amazonは書棚の整理で不要になった本を交換するようなシステムでありがたい。この本の存在には気がついていたが、積読リストも長いのでそのままになっていた。1991年はわたしが日本を離れて海外出稼ぎ生活を始めて1年目だったので、日本の書店に立ち寄る余裕もなかった。

それでもこの本はいつも気になっていた。高井有一という小説家のことは学生時代に「夜明けの土地」を読んで知った。立原正秋との最初の出会いは子供の頃のTVでみた「冬の旅」の原作者としてだった。あおい輝彦主演で、田村正和が義理の兄を演じていた。学生時代に立原正秋を読み耽った時期があるのも、「恋人たち」というTVドラマの原作が印象的だったせいだと思う。ドラマの方は年末にご逝去された根津甚八が主演し、大竹しのぶが相手役を演じた。ドラマの評判も高かったが、原作本も渋い。高井有一が立原正秋の評伝を書いたのであれば面白そうだと思った。

この本は3つの点で面白い。まずは小説家立原正秋についての本格評伝だ。この評伝を読んで開高健について書かれた幾冊かの優れた本を思い出した。評伝には作家との親交を中心に知人が思い出を書くものと、作品を愛読する人が遺族や友人へのインタビューや未公開の資料などを中心に書くものと大きく2種類ある。高井氏の本は前者に属するもので圧倒的な臨場感が素晴らしい。谷沢永一氏や菊谷匡祐氏がそれぞれ友人だったり、先輩後輩だったりの立場から開高健について書いた濃密な文章を連想させる。

もう一つは高井有一について知りたいという興味だ。高井有一という小説家は新聞記者との2足のわらじを履いていた人で寡作の印象がある。芥川賞を受賞した「北の河」や「夜明けの土地」などでこの人に興味を持ったが、その後の作品の数が少なくて残念だった。この評伝の中に流行作家となった立原正秋が同人誌の後輩だった高井氏に作家専業になることを薦めたくだりが何度か登場する。立原先輩は高井氏を説得しようとして「一年間の資金援助」まで申し出る。高井氏はこれを断ったそうだ。両親に先立たれ戦後の生活の苦労を味わったことがトラウマだったのか?それとも立原先輩が純文学から次第に流行作家に移行したことを気にして専業作家生活を嫌ったのか?明確な理由は明らかにされていない。

この本にはもう一つ「鎌倉本」としての魅力がある。共同通信の記者だった高井氏が上京した折に腰越の立原家に泊めてもらい朝食を食べながら朝刊に載っていた柴田翔「贈る言葉」の新聞広告を目にする話、正月に梶原の立原家から風呂敷に包んだ酒の化粧樽を木刀に括り付け、大船駅の方向をめざして山道を行く話、鎌倉の山桜を愛した立原正秋の墓が瑞泉寺にある話などが登場する。第9章「或る女人の物語」が面白い。ここに登場する大町の妙本寺といえば鎌倉に住んだ小林秀雄と中原中也が春の海棠を眺めながら再会を果たした場所として知られている。このお寺で立原正秋が恋人とその子供を連れて除夜の鐘を聴いた話が印象的だ。