20代の頃に「朝までに」という短編集を読んで以来気になっていた人の名前を最近の新聞朝刊の広告欄で名前を見つけた。80代を迎えて自伝的連作集を出されたことが気になり、その新作と一緒にいくつかAmazonで取り寄せて読んでみた中の一冊。一読して仰天。キリスト教の神をテーマにしたとても抑えたトーンの語り口ながら扱っている素材が生々しい。はてさてと感想を書くことを逡巡してみたものの、車谷長吉氏の出世作「赤目四十八瀧心中未遂」にしても、吉村萬壱氏の近作「臣女」、「回遊人」にしてもそういう道具立てを使うことは珍しいことではない。村上春樹氏の「ノルウェイの森」、「国境の南、太陽の西」にしても際どい場面は存在する。
さてそのくらいの言い訳を用意した後でこの本を読み返してみると、用意周到な構図をもとに設計された物語になっている。4つくらいの事件が起きる。最初の事件は学校時代。まだ幼い主人公は、不注意から級友を怪我させてしまうが、その責任について告白するタイミングを失してしまうことから悩みが始まる。罪を犯し、秘密を持ったことによって親の保護の世界から飛び出してしまうことで子供時代が終焉する。似たような話を読んだ記憶がある。ヘルマン・ヘッセの「デミアン」の第1章「二つの世界」の中に登場する挿話とほぼ共通だ。
第2と第3の事件は連続して起こる。一つは青春期を迎えた主人公が魅力的な夫人に溺れてしまう。悲劇が起こるのはその混乱の中にある青年を霊的な高みに導くべき存在として現れる女性がその夫人の義理の娘さんだったこと。あれっと? これも何だかありそうな話で、映画「卒業」でもダスティン・ホフマン演じた青年が悩む場面だ。信仰の世界を模索しながら作品を書いてきた人としては欲望と聖なるものへの憧れの対立を描かざるを得ないのかも知れないが、かなり作為的な対立構図だ。
第4は以上の1-3の3つの傷を負った主人公が、罪の意識から立ち直ることができないまま受動的に生きていると、救い主のような女性が登場して結婚生活が始まる。これでハッピーエンドになればこの小説はもう少し読後感が明るいはずだ。この主人公の過去の罪を許さない存在としての犠牲者の父が登場する。この父の存在がなければほとんど村上氏の「ノルウェイの森」のエンディングに近い。復讐者は中年を迎えた主人公をじわじわ精神の危機へと追い詰めていく。
粗っぽい言い方をすればさまざまな小説で描かれているような「よくある事件」に遭遇し、不注意からか巡り合わせからか加害者に「転落した」主人公が、自らの罪の意識に向き合う話ということになりそうだ。罪としての体験を際立たせるための道具立てが激しくてびっくりするが、それだけにはとどまらず深い印象が残る。