詩人堀口大學氏は旧制長岡中学の出身なので、郷里の大先輩である。関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」(1980年、岩波現代文庫所収)を読んで面白かったのでノートを書いた。その本の中で大學先輩は父の九萬一氏のことにも触れている。この人についてもっと知りたくなった。堀口父子について詳しい新潟在住のN氏に教えてもらった2冊の評伝を読んだ。工藤美代子「黄昏の詩人 堀口大學とその父のこと」(2001年)と柏倉康夫「敗れし圀の秋のはて 評伝堀口九萬一」(2008年)である。
1865年に明治維新を3年後に控えた長岡藩の下級武士の家に生まれた堀口九萬一氏は、戊辰戦争で焼け跡となった長岡の「掘立小屋」住まいから、自分の能力だけを頼りに、江戸から明治に変わった世の中で身を立てようと努力奮闘する。九萬一氏は語学のセンスを持った人らしく、幼い時から漢学の才能を発揮する。長岡中学に入学すると英語の猛勉強をする。この人が帝国大學法学部の前身である司法省法学校を受験するのは明治18年のことだが、選抜試験は得意の漢学だったので合格すると、フランス法の習得のためにフランス語を学ぶ。やがて外交官を試験で選抜する制度が始まり、その一期生として合格を果たす。必死の努力が実り帝大から日本初の外交官の地位を得るところまでは目覚ましいほどの立身出世物語だ。
日清戦争の最中に朝鮮へ赴任となったところから、その後の九萬一氏の波乱万丈で苦労の多い生涯が始まる。この時に閔妃暗殺事件に連座し広島監獄に収監されてからは、外交官としての復職は果たしたものの、歴史の表舞台からは縁遠い人生を歩むことになる。書記官としていくつかの任国を経験した後で40代の半ばからメキシコ、スペイン、ブラジル、ルーマニアと一貫してラテン系の国々で代理公使から始まり、在外公館の責任者として外交官人生を歩んだ。詩才にたけ、赴任した国々の中では酒と料理と情熱の国スペインを一番楽しんだという九萬一氏は自らの流転の人生を楽しんだ人でもあるらしい。
53歳の時に、最後から2番目となった赴任地となったブラジルに特命全権公使として赴任する前に九萬一氏は故郷長岡を訪れ先祖の墓にお参りしている。「相変わらず一所不在の哀れな浮草暮らしです。折角故郷長岡に墓参しましたが、先祖の霊に報告するほどの手柄の一つない」とわびしい気持ちを漢詩にしているのが、この人らしい。越後長岡から試験に合格することだけで切り開いた人生としては十分とも思われるが、常にトップクラスで試験に合格し、関門を突破し続けた俊才としては、中央官界から遠く離れていたことを残念に思っていたようだ。父九萬一氏が長い間息子の大學先輩を外交官にさせようとあれこれと教育に励んだのも、孤立無援の自分が果たし得なかった外交官としての栄達の夢を息子に託したかったのだろう。
病弱で何度も大病をしている息子の大學先輩は、父の期待には応えられなかったが、それとは別の形で日本の歴史に名を残すことになる。明治25年生まれのこの詩人は、東京本郷の生まれだ。父が27歳で帝大在学中に赤門の近くで生まれたことから大學と命名されたと本人が説明している。それから九萬一氏が朝鮮に赴任したので、留守家族は長岡に移り住んだ。この詩人が3歳の夏の長岡の花火を鮮明に覚えているのは、その秋に亡くなられたご母堂が入院先の病室の窓際でじっと花火を観ていた記憶があるからだそうだ。
大學先輩は、「長城」の号を持つ漢詩人でもあった父から詩才を引き継ぎ、家ではフランス語しか話さなかったベルギー人の養母から語学を学んだ。日本では浪漫派の歌人吉井勇に心酔し、与謝野鉄幹、晶子夫妻の率いる新詩社に出入りして詩人としての修行を始めるが、息子の将来を心配した父九萬一氏は二十歳になった息子を赴任先のメキシコに呼び寄せる。父の狙いは息子にフランス語を習得させることだったが、息子は読書人である父の書棚にあるフランス文学を片っ端から読み始める。詩心のある父は、語学教育の一環として息子にヴェルレーヌの詩を読む手ほどきをする。詩人堀口大學にとってこれ以上の英才教育はないだろう。
工藤美代子氏は大學先輩が昭和45年に79歳になってようやく文化功労者として顕彰された時の詩を紹介している。「堪えて 忍んで 我慢して 命の長さで戦う以外 生き残る手はないと見た 四十だった」とある。代表作である訳詩集「月下の一群」が出版されたのは大正14年の秋で、詩人が33歳の時である。30台後半から40代の働き盛りの頃に昭和詩壇で活躍した同世代の詩人たちから、さほど評価されなかったことを、大學先輩がかなり気にしていたことが二つの評伝に書かれている。やがてその功績により文化勲章を受章したのは、昭和54年で、87歳の時である。
大學先輩が20代後半に自費出版した訳詩集に序文を書いて以来、この詩人を評価し続けた永井荷風はこの詩人の本質を次のように表現している。「そもそも君はこの年月かれ等西欧詩家の住みける都に同じく住みて朝な夕なその人々の眺めうたひたる同じき雲と水と同じき御寺の塔と町の花園とをまた同じき近世の悩みとよろこびを以て打眺めたまひし詩人なり。」 昭和初期の詩壇でフランス詩を神聖な「研究」の対象としていた人々にとっては、10余年を海外で暮らしてフランス語での生活と感じ方を自然と身に着けた大學先輩の仕事は違和感と羨望をもって眺めずにはいられなかったのだろうか?
堀口父子の両者とも長岡高校の大先輩にあたる。昭和16年に旧制長岡中学創立70周年を記念して、大學先輩は第二校歌を作詞されている。「かざす縁の三葉柏 源遠きわが藩の。。。」で始まるとても格調の高い歌だ。この校歌の額は今も長岡高校の記念室に飾られている。在校時にこの額を見たことがあるが、それが九萬一氏の手によるものだとは知らなかった。合掌。
長岡高校第二校歌、これからは心して歌うことにします。恒例の東京同窓会の締めには歌いますから。
返信削除平井先輩、ありがとうございます。今度一緒に歌いましょう。
削除今年は九萬一の史跡を辿ってみようと思います。
返信削除コメントありがとうございます。撮影と投稿をよろしくお願いいたします。
削除