2015年10月25日日曜日

村上春樹「職業としての小説家」

「職業としての小説家」読了。12回の構成となっている自伝的エッセイ。第6回の「時間を味方につけるー長編小説を書くこと」は一日10枚のペースで書き続けた第一稿を、どうやって書き直し、完成稿に仕上げていくかの話。具体的なノウハウが公開されていて面白い。

第11回の「海外へ出て行く。新しいフロンティア」には、ムラカミ作品の英訳が雑誌「ニューヨーカー」に定期的に掲載されるようになるまでの努力と経緯が描かれている。こんなことを実行した日本の小説家は、他にいないだろうから、他の作家が海外での売り上げでこの人に敵わないのも無理はない。村上春樹が英語圏市場に興味を持つようになったきっかけが、反骨心であったことも明らかにされている。「「村上春樹の書くものは所詮、外国文学の焼き直しであって、そんなものはせいぜい日本国内でしか通用しない」というようなこともよく言われました。。。(中略)。。。「そう言うのなら、僕の作品が外国で通用するかしない、ひとつ試してみようじゃないか」という挑戦的な思いは、正直言ってなくはありませんでした。」

第12回の「物語のあるところ・河合隼雄先生の思い出」には、「風の歌を聴け」で鮮烈なデビューを飾って以来、芥川選考委員たちを含む既成の作家たちや、評論家たちから軽視されたことでかなり傷ついていたこの小説家が分野は異なるが「日本の大家」である河合先生に共感され理解された経験が書かれている。以下はこの回からの抜粋。「我々は何を共有していたか?ひとことで言えば、おそらく物語というコンセプトだったと思います。物語というのはつまり人の魂の奥底にあるものです。人の魂の奥底にあるべきものです。それは魂のいちばん深いところにあるからこそ、人と人とを根元でつなぎ合わせられるものなのです。」

この他にも英語のペーパーバックをたくさん読んでいた話や、デビュー作を書こうと思い立った時に、書き出しの部分を英語で書いてみて新しい文体を模索した話なども面白いが、上記の3回分だけでも素晴らしい。

2015年10月15日木曜日

テニスン「シャロット姫」とJ.W. ウォーターハウスの絵

鏡の物語というのは世界中に存在している。グリム童話で白雪姫に嫉妬する継母の話は有名だ。ロシアの詩人マリーナ・ツヴェタエヴァにも鏡の世界をテーマにした詩がある。ロシア映画「運命の皮肉」(リャザノフ監督、1975年)の中で、全盛期のアラ・ブガチョヴァが吹き替えで歌っている。「くもった鏡を覗いて 靄のかかった夢の中から探りあてたい あなたの道はどこへ続くのか あなたはどこへ錨を下ろすのか」。荒井由美が70年代前半に彗星のようにデビューしてすぐのアルバムの中に「魔法の鏡」という歌が入っていた。「魔法の鏡を持ってたら あなたの暮らし映してみたい」。 大川栄策が歌った「さざんかの宿」も窓ガラス越しの世界を見ようとしているのは共通している。「くもり硝子を手でふいて あなた明日が見えますか」。

ロンドンを離れる前にテート・ブリテンを訪ねてきた。1987年にロンドンを初めて訪れた時以来、このギャラリーのラファエル前派の部屋は気に入っている場所だ。ダンテ・ガブリエル・ロセッティ、バーン・ジョーンズなどどれも素晴らしいが、ウォーターハウスの「シャロット姫 The Lady of Shalott」も気になる絵だ。この絵は有名なので何度も観ているが、そのテーマとなっているテニソンの詩を読んだことがなかったので、岩波文庫「対訳 テニスン詩集」で調べてみた。シャロット姫はアーサー王伝説のキャメロット城が見える川の中洲に建つ塔の上に住んでいる。この姫君は彩りあざやかな織物を織っている。

シャロット姫の織物作りには秘密がある。高い塔の部屋には大きな鏡がかかっている。この鏡に映る世の中を眺めながらそれを織物の柄にするのがこの姫の仕事だ。客観的には塔の一室に幽閉されているにも関わらず、この姫君は主観的には世界全体を眺める立場にあって、それを解釈し、それを織物の柄として表現する行為を通じて満ち足りた幸福の世界に住んでいる。姫君には守るべき掟がある。塔の外の世界を、直接に見ることが許されないことだ。そのような静かな幸福の世界に住んでいた姫君は、次第に鏡を通じて眺める世界に飽きてしまう。倦怠と不満はアーサー王伝説の騎士ラーンスロットを見た時に頂点に達し、姫君は掟を破って雄々しい騎士を自分の目で直視してしまう。その途端に魔法の鏡は砕け散る。恋心と好奇心のために自らの塔の世界を失った姫君は、小船に乗ってあてもなく漂流していく。魔法の後ろ盾を失った死出の旅だ。

神話や物語をテーマにした絵を描いたウォーターハウスには「ヒュラスとニンフたち」、「エコーとナルキッソス」、「オデュッセウスに盃を差し出すキルケ」、「嫉妬に燃えるキルケ」、「燃え上がる6月」などの傑作がある。どれも私自身のロンドンの生活の記憶や読んだ本と結びついている懐かしい絵ばかりだ。これらの絵の多くが水面に関係していることと、その水面には睡蓮が描かれていることが興味深い。テニスンの詩「シャロット姫」にも睡蓮が登場している。


2015年10月12日月曜日

C.ダグラス・スミス 「憲法は政府に対する命令である」(平凡社ライブラリー)

学生生活を終えて実社会に出て36年になる。法学部の学生であったこととはあまり縁のない道を歩いてきたので、芦部先生のゼミに在籍していたことも遠い日の幻のような記憶だ。昨年の解釈改憲に始まった一連の議論がメディアを賑わすようになって以来、びっくりすることが多くなったので、否応なしに当時の大教室で習った憲法の講義の内容について考えるようになった。そうして様々な昨今の論説を読んでみると、自分の学生時代に常識だったはずのことが根底から覆るような議論が飛び交っていることで呆然とする。

正直に言うと反対してよいものやら、賛成してよいものやら分からなくなった。戦後のアメリカの憲法学の理論を日本に紹介されていた芦部先生から学んだことで今でも記憶しているのは「適正手続き(due process)」を尊重すべしとする考え方と、基本的な価値を否定する勢力に対して無力であってはいけないという「戦う民主主義」という概念だ。そういう基本を抑えた上で一つ一つの事がらについて丁寧な議論を経て解決の道を探っていくことしかできないような気がしている。メディアで飛び交っているのは賛成する側でも、反対する側でも結論ありきで、詳細についての詰めのない議論が多い。どちらの側にもあまり説得力を感じない。

そういう気持ちでいる時に出会った本だ。この本の著者を知ったのは去年の7月に平凡社の中学生の質問箱シリーズ「戦争するってどんなこと?」を高校同窓のI氏が推薦してくれたのがきっかけだった。哲学専攻で読書家のこの若い友人からは学ぶところが多かったので、この人がFBを離脱した時は残念だったが仕方がない。昨夏の中学生向けの本を読んで歯切れの良い問題設定の仕方に感心した。今週帰国して、書店に行って平凡社ライブラリーに入っているこの本を手に取ってみた。去年の本よりももっとわかり易い形で論点が整理されている。第四章「日本国憲法は、誰が誰に押しつけた憲法なのか」には脱帽した。この本の241頁から数頁にまとめられている「付録 憲法・安保・沖縄」には、昨年来の「どうやって国や人々を守るのか」という議論が2度にわたった大きな論争をまき起こしながら、結局うやむやになってしまう理由が明示されている。賛成する人も、反対する人も一度は読んでほしい気がする。



2015年10月7日水曜日

中原清一郎 「カノン」

帰省していた時に何気なくブックオフを覗いていてこの本を見つけた。本の帯に「「北帰行」から37年 - 外岡秀俊が沈黙を破る」とあったので思わず買ってしまった。小林旭が歌った「北帰行」という歌があるが、外岡氏の処女作は北海道出身の学生だった著者が在学中に書いて文藝賞をもらったので当時話題になった本だ。1976年のことだからわたしは大学2年生だった。この人は翌年には新聞社に就職してしまい、小説家としての活動は長らく休止していた。新聞記者としては出世したらしい。退職後もジャーナリストとして福島原発の事故のレポートなどを書いていたのを読んだことがある。その人が沈黙を破って小説を書いたとなれば読まずにはいられない。

心の本体としての人間の記憶と、その容器としての肉体の分離をテーマにした小説だ。記憶を失う難病にかかった若い母親と、脳はしっかりしているが末期がんで死んでいく58歳の男がいる。このままでは二人とも死んでしまうだけだ。それぞれの健康な部分を足し合わせて新しい人間を作った場合に何が起きるだろうかという筋書きは面白いのだが、それだけだと370頁は長い感じがした。記憶を司る海馬の移植手術という題材を使ってはいるが医療ドラマという訳でもない。物語の中心になるのは死を宣告されていた58歳の男が、突然現代医学の恩恵により海馬の移植手術を受けて、若い女性の肉体の中に生まれ変わる話と言った方がわかりやすい。男性から女性への、初老からまだ若い人への移行に伴うアイデンティティの混乱を描いている部分は面白い。

海馬移植手術の当事者である二人の他にも、アルツハイマーが始まっている女性の母親などを登場させ、老いていく肉体にとって、消えてゆきつつある若い日の恋の記憶がどういう意味をもつのかを書いている部分も面白い。この本は著者自身の介護経験からヒントを得て書かれた作品ということだが、いくつも挿入されている記憶をめぐる話は著者自身のものだろうかと思わせる。沼野充義氏が中日新聞の書評で「稀有の小説」と絶賛していたそうだ。二人の人間の間で記憶が交換されるというしかけについては、話がやや冗長になった気がするが、薄らいでいく記憶、朽ちていく記憶に対する深い想いを書いている点でしみじみした読後感が残る。

この本を読んでしばらくしてからとても興味深いTV番組を観た。心臓移植を経験した人たちの性格や嗜好が変わったり、心臓提供者の好きな音楽の記憶が心臓を提供された人に伝わったりした例がいくつも紹介されていた。現時点では医学界の多数説になるには至っていないそうだが、記憶を司る神経が脳の海馬にだけ存在するのではなく、心臓の周りにも存在するという学説が紹介されていた。心臓にも記憶を司る神経があるとすれば「カノン」の物語はすっきりする。移植後、人格が完全に変わるのではなく、身体の中にも人格・記憶を司るものが存在しているので、移植後はまず2つの人格の併存状態となり、その後に融合してひとつの新しい人格が形成されるか、あるいはそれに失敗した場合は拒否反応が起きて移植失敗につながることになるというのが「カノン」の仮説だった。なるほどと納得。