2015年5月22日金曜日

車谷長吉の3冊の本 「忌中」、「赤目四十八瀧心中未遂」、「妖談」

車谷長吉氏がご逝去された。ご冥福をお祈り申し上げます。1998年(平成十年)に直木賞を受賞した「赤目四十八瀧心中未遂」以来、とても気になる人だった。その当時、ロンドンに住んでいた。新聞で取り上げられていたこの本が気になって日本から送ってもらって読んだ。この物語は映画化され、主演女優寺島しのぶの出世作となった。この人はその後も「忌中」(2003年)、「妖談」(2010年)など不思議な迫力に満ちた小説を書き続けた。

「忌中」という短編集の中に「古墳の話」という短編がある。冒頭の文章が変わっている。「私ども夫婦は、平成五年十月十七日に結婚した。わたしは四十八歳、嫁はんは四十九歳、ともに初婚だった。平成十四年十月十七日は。九回目の結婚記念日だった。。。」。この短編は、初めて別々に過ごした2002年の結婚記念日に、高校時代に無残な死をとげた友人の霊を慰めるために、郷里の古墳に登る話だ。この短編の中で、「大学2年の夏休みに突然、将来は文士になって哀悼の小説を書こう、という考えに取りつかれ、独文科へ進級した」という文章がある。古墳が好きでそれまでは考古学を学ぶことを考えていたそうだ。


「嫁はん」である詩人の高橋順子氏は1997年12月に「鬼の雪隠」(高橋順子詩集 思潮社現代詩文庫)という文章を書いた。強迫神経症を病んでいる「連れ合い」に、石舞台などの古墳のある風景を見せたくて、明日香村を訪ねた時の文章だ。「連れ合いは虚無的なものに傾斜しがちな人だが、生のほうにも強く手をかけている人である。振幅が大きい。その人と、主人公たちの死に絶えた村を歩いてみたかった。そこから立ち上がってくるものがあれば、わたしたちは救われるような気が、少なくとも私はしたのである。」 高橋順子氏は詩人専業となる前は編集者だった。自分の「連れ合い」となったこの小説家をよくよく理解していたことがうかがい知れる文章だ。


高橋順子氏の詩集「貧乏な椅子」(2000年花神社)に「天狗」という詩がある。

              
   「結婚五年目にしてわたしたちには
    すでに失われた懐かしい家がある
    その家の二階でつれあいはワード・プロセッサーを打ちつつけ
    心中物の小説を書いていた。。。」
      (以下略 「高橋順子詩集 思潮社現代詩文庫)


この小説が「赤目四十八瀧心中未遂」であることは間違いなさそうだ。鬼気迫る本だった。主人公は作家になりたくて、東京のサラリーマン生活を投げ捨てる。ほめてくれる雑誌編集者もいたので何とかなると思っていたのが、実際に作家志望専業になった途端に生活に困ってしまう。母親も息子に愛想を尽かす。「他人様は上手いことを言うだろうよ。お前に小説が書けようが書けまいが他人事だから。お前が野たれ死にしようがしまいがどうだっていいさ。それを真に受けてどうする。」  この辺りの苦しい記憶が繰り返し登場する初期の短編集はどれも凄い。


この小説の主人公は、仕事を転々として、やがて大阪尼ヶ崎のアパートの一室でひたすらモツ肉の串を刺し続けることになる。この本を読んだ時は、わたしも日本の会社員生活に区切りをつけて海外で仕事をするようになってから8年目だった。異国の言葉を話す人たちに囲まれながら、朝から晩までデスクトップの前に座ってプロジェクト報告をまとめる作業に追われながら暮らしていた。同じような「異域」に住む主人公に感情移入した。都市に埋没して生きる疎外感と、あてのない漂流感覚を描いたこの本は傑作だ。偶然のように怪しげな場所に居つくようになること、それまでの葛藤から解放されてその場所の居心地がいいこと、不思議な魅力の女が登場してくることの3点で安部公房の「砂の女」を連想させるが、「赤目四十八瀧心中未遂」を際立たせているのはその緊迫した情念の強さだ。


「妖談」という2010年の作品がまた変わっている。この本には、34編の小説とも随筆ともつかないとても短い作品が収められている。「駒込千駄木町」、「ある精神科医」、「読売新聞配達員」という題の3つの話の中に、主人公が48歳の時に49歳の女性と結婚したこと、30代の時に京阪神の各地で料理屋の下働きをしたことが繰り返しのように出て来る。そしてそのどれもが何とも言えない妖しげな雰囲気を醸し出す。この3つの掌編を読むと「赤目四十八瀧心中未遂」に描かれている30代からの漂流経験と、その後48歳になって自分を理解できる「嫁はん」を得たことが、この小説家にとっていかに大きな事件であったかがわかる。合掌。



2015年5月9日土曜日

イザベラ植物園のシャクナゲと井上靖の思い出

井上靖の小説を10代の頃に読んでとても好きだった。中学生の国語の教科書で読んだ「しろばんば」がしみじみとしている。高校生になってからも「夏草冬濤」、「北の海」など、この人の本を読み続けた。散文詩集も読んだ。「比良のシャクナゲ」もその頃読んだ記憶がある。同じ題名の短編小説もある。よほどこの花の情景が気に入ったのだろう。1990年代から仕事で中央アジアやコーカサスの国を訪ねたり、駐在勤務をした時に井上靖に「再会」したのも懐かしい記憶だ。この人はシルクロードや西域を舞台にした散文詩や小説を数多く書いている。「崑崙の玉」(文春文庫)というキルギスや西域を舞台にした短編集を、それらの小説の舞台となった場所で読んでいると思うと味わい深いものがあった。

12年にわたって3つの途上国での駐在勤務を続けた後で、ロンドンの本部に戻った。50代の半ばになっていた。「石楠花」と書くこの花を実際に見たのはそれからだ。ロンドンの南西部にある広大なリッチモンド公園の中にイザベラ植物園という秘密の森みたいな場所がある。4月の末から5月の間だけつつじとシャクナゲの見事な開花を観ることができる。「大きなつつじが木の上の方に咲いている」と怪訝に思ったのがシャクナゲだった。

井上靖は医者の家に生まれた。お父さんがあちこちに転勤があったことと、兄弟が多くて大変だったことなどで、祖父の後妻であった人に預けられて育ったそうだ。「しろばんば」という自伝的な小説の世界だ。このお祖母さんは井上靖をとても可愛がり、短期の予定で預かった幼子の井上靖をその後も手離さなかったそうだ。自分が寂しいこともあっただろう。井上靖としては、自分だけが親と離れて育てられたことがわだかまりになったらしい。ありそうな話だ。わたし自身にも、わたしの周辺にも思い当たることがある。その昔は「家の都合」で似たようなことは頻繁に起きたらしい。

この人の小説も、散文詩のような静けさと孤独感が特徴だ。実の両親と育ててくれた血のつながっていないお祖母さんの間に挟まれる形で子供時代を過ごした結果として、この小説家が人間関係を煩わしく思うようになったとしても不思議ではない。そうした厭世的な感覚が、井上靖の作品には色濃い。この人は、やがて中国や、モンゴルや、西域作品を書くようになり、自分の生まれた土地を離れて漂泊する魂の物語を書き続けることになる。

「比良のシャクナゲ」は大学を出て、新聞社に勤めながら、やがては作家として世の中に出ることを夢見ていたであろう若い日の作品だ。勤め人としての鬱屈や疲れを感じるたびに、比良のシャクナゲの写真を思い出すという詩だ。そういう思いを抱いてから十年ほど経って、そこまで追いつめられていない自分に気がつくというひねり方が面白い。比良の山々はこの詩人の心の中に存在していたのだろう。ぽっかりと心が明るくなるような詩だ。

比良のシャクナゲ
むかし「写真画報」という雑誌で"比良のシャクナゲ"
の写真をみたことがある。そこははるか眼下に鏡のよう
な湖面の一部が望まれる比良山系の頂きで、あの香り高
く白い高山植物の群落が、その急峻な斜面を美しくおお
っていた。
その写真を見たとき、私はいつか自分が、人の世の生活の
疲労と悲しみをリュックいっぱいに詰め、まなかいに立
つ比良の稜線を仰ぎながら、湖畔の小さい軽便鉄道にゆ
られ、この美しい山巓の一角に辿りつく日があるであろ
うことを、ひそかに心に期して疑わなかった。絶望と孤
独の日、必ずや自分はこの山に登るであろうと──
それからおそらく十年になるだろうが、私はいまだに比
良のシャクナゲを知らない。忘れていたわけではない。
年々歳々、その高い峯の白い花を瞼に描く機会は私に多
くなっている。ただあの比良の峯の頂き、香り高い花の
群落のもとで、星に顔を向けて眠る己が睡りを想うと、
その時の自分の姿の持つ、幸とか不幸とかに無縁な、ひ
たすらなる悲しみのようなものに触れると、なぜか、下
界のいかなる絶望も、いかなる孤独も、なほ猥雑なくだ
らぬものに思えてくるのであった。
  (「井上靖全詩集」井上靖 新潮文庫)






2015年5月8日金曜日

「キッズ・エコ Kids Eco」で教わりながら、ラフカディオ・ハーン「おしどり」を読む

2005年の2月に出版された「キッズ・エコ Kids Eco」(ソニー・マガジンズ)という本がある。著者はエコロジー・オン・ライン(EOL) という環境問題を考える団体のメンバーである青木一夫、黒須一彦の両氏。ケビン・ショートという自然環境学者・ナチュラリストが監修し、及川賢治という人がイラストを描いている。新潟県立長岡高校のクラスメートである青木君から、しばらく前にこの本をいただいた。この本は自然観察と研究にもとずいた面白知識が満載の本だ。子供向けの本なので各テーマが簡潔で平易に書かれている。それでいて、核心をついているので大人が読んでも面白い。

わたしは現在ロンドンに住んでいる。つれあいが昨年の秋から日本に帰っているので、2匹の犬の世話をし、散歩させるのは私の仕事だ。おかげで近所のチズイック・ハウスの池、バーンズ自然保護区に近いテムズ川の岸辺、車で20分ほどのリッチモンド公園などに行く機会が圧倒的に増えた。犬の散歩のついでに植物や水鳥の写真を撮るようになると、いろいろと知りたいことが出てきた。植物や水鳥の名前はウェブで検索したり、フェースブックに写真を投稿して友だちに教えてもらうこともできるが、それでもわからないことは残る。ある日、青木君の本を手に取ってみると、面白いだけでなく、とても役に立つことに気が付いた。いくつか最近の「目からうろこ」例を紹介してみたい。

1)「女装しているのカモね」(55頁)。

近所の公園にいるマガモ、キンクロハジロ、オシドリなどはオス鳥がものすごく派手な色の羽毛に覆われていて、メス鳥は地味な茶色の羽毛だ。「キッズ・エコ」によれば、カモは渡り鳥で北から南の地方へ冬になると渡ってくるが、その時にはオス鳥もメス鳥も似たような茶色なのだそうだ。冬の終わりから春になるとオス鳥はとても派手な色彩をまとうことになる。これは繁殖期を迎えつつあるオス鳥の色だ。色気ついて派手な格好をするようになる若者たちが、その前段階でわざと地味目の女装をするようなものだ。言い得て妙だ。地味な茶色の下にすこしだけ青い羽根があるところは学生服の下でお洒落する若者たちによく似ている。

この時期の水鳥はマガモでも、キンクロハジロでも、オシドリでもつがいで行動することが多いが、良く観るとオス鳥がメス鳥を追いかけてついて回っている場合が多い。この行動がオシドリでは特に目立つので昔から「オシドリ夫婦」という言葉があり、夫婦仲の良さを示す言葉にもなっている。水鳥のいる池で個体数を確認すると明らかだが、数の少ないメス鳥を放っておくと他のオス鳥に取られてしまうので必死でエスコートしているのが実態らしい。先日もリッチモンド公園の中にあるペッグ池というところで、1羽のメス鳥に56羽のオス鳥が殺到している場面に遭遇して、びっくりした。数分後に争奪戦はおさまった。このような事態を招かないためにオス鳥たるものは他のオス鳥を威嚇しつつ、しっかり自分のパートナーを守っているわけだ。

2)「鳥にも潜水のプロがいる」(54頁)

キンクロハジロという和名の水鳥も目立つ。黒白のタキシードを着て、大学の角帽の房がついているようだと覚えておけばすぐ見分けがつく。頭のてっぺんにある羽毛が後ろに向かって立っている。この鳥は英語ではtufted duckと言い、「房のついたカモ」という意味だ。それに比べると和名が冗談みたいだ。目が金色で、身体が黒い羽毛に覆われ、ちょうど白いシャツを着ているように胴の下の部分が白い羽毛で覆われている。全部合わせると「金・黒・羽白」である。この鳥を撮影するのは容易ではない、すいすいと泳ぎ回るスピードが速いだけでなく、じっとしたかと思うと、今度は小さくジャンプして飛び込んで潜水する。「キッズ・エコ」の説明によれば、こういう水鳥たちは骨の中がつまっていて重く、潜る場合は身体の中の気のうに貯めた空気を抜いて沈みやすくするのだそうだ。エサを取ったり、敵から逃れる時に潜水能力は役に立つ。これに比べ、空を飛ぶ鳥の場合には空気を貯める気のうだけでなく、骨の中も空洞になっているので身体が軽くなり、水に潜ることはできない。

3)「「オシドリ夫婦」は本当に仲がいいの?」(56頁)

「オシドリ夫婦」は仲が良いという俗説はどうも正確ではないらしい。「キッズ・エコ」によれば、オシドリのオス鳥とメス鳥の仲が良いのは産卵期の春までで、卵が産まれると、温めてヒナをかえし、育てるのはメス鳥だけだ。ロンドンの近所の池で観察した卵からかえったばかりのオオバンのヒナの場合でも、マガモのヒナの場合でも、確かに回りにいるのは母鳥だけだ。この時点でオス鳥とメス鳥は別れて、翌シーズンには別々のパートナーとめぐりあうことになるそうだ。したがって仲良く添い遂げる夫婦の代表例としては「ハクチョウ夫婦」などとするのが正しいそうだ。

オシドリ夫婦については昔の人が「仲が良い」と信じたのも無理はないだろう。オシドリは他の水鳥に比べても極彩色で目立つ一方で、木蔭に潜むのが好きで池の中央の水面に出て来ることが少ない習性を持つ。たまにしか見ないオシドリのカップルが去年と同じだったかどうかなどは、普通は判るはずもない。世界各地を旅した後で日本にたどり着き、日本女性を妻にして小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーン先生は「怪談」という傑作を書いたが、この中に「おしどり」というとても短い作品がある。これはある時猟師がおしどりのカップルを見つけて、目立つほうのオス鳥が標的になり易かったせいか、猟銃で仕留めてしまう話だ。猟師としては当たり前の行動だ。ところがその晩になると、美しい女が猟師の夢の中に現れて、自分は殺されたオス鳥の女房であると言い、猟師への恨み言を述べる。次の日、気になった猟師がオス鳥を撃った場所に行ってみると、夢の中で美しい女が言った通りにメス鳥が待っていて、猟師の目の前で自らのくちばしで自殺する。猟師は殺生をしながら生きていくことを後悔し、出家するという物語だ。

現代の自然研究の成果を知って、ハーン先生はお墓の下であわてていらっしゃるだろうか?そんな必要はないだろう。たとえオシドリの夫婦の愛し合う期間が、後世の学者たちが発見したように短い一つの季節に限定されるものだとしても、愛するパートナーを目の前で撃ち殺されて、悲嘆にくれるメス鳥が、猟師を恨みながら、自ら命を絶ったとすれば、その愛はハーン先生が感じた以上に強く純粋なものだったことも十分にあり得る話だ。合掌。





2015年5月3日日曜日

タルコフスキー監督の映画「ソラリス」とスタニスワフ・レムの「ソラリス」

伝説のソ連映画であるアンドレイ・タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」(1972年)には、1961年に出版されたポーランドの作家スタニスワフ・レムの原作がある。1977年にハヤカワ文庫に入った「ソラリスの陽のもとに」(飯田規和訳)は、このやたらと長くてゆったりしたテンポの映画を観た後で、いくつかの細部を確認するために買って拾い読みした。この原作本がロシア・東欧文学の沼野充義氏により、オリジナルのポーランド語版から訳され国書刊行会から出版されたのは2004年のことだ。それから11年経った今年になって、ハヤカワ文庫SFの2000番到達を記念して、文庫化されたそうなので、日本にいるつれあいに頼んで取り寄せている。チェーホフの新訳も出している沼野氏の訳も読んでみたいし、どの辺りが旧ソ連当局により削除されていたのかにも興味がある。

ソ連映画の方は観たが、ジョージ・クルーニー主演で2002年に映画化されたハリウッド版は観ていない。ソ連映画の「ソラリス」を観た人は、原作者の名前を、わたしのように「スタニスラフ」と覚えているかも知れない。「スタニスワフ」となっているのはポーランド語読みだ。最近ポーランド文学が専門でもある西成彦氏のことを調べていて気がついた。この東欧文学・比較文学の先生は、まだ若い頃は詩壇で脚光を浴びていた当時の奥さんの夫としての方がよく知られていた。このご夫婦の子育て本が共著で出版されたのは80年代後半だ。それからしばらくして、離婚されているので、この話題を覚えている人は少ないかも知れない。去年、比較文学・映画評論の四方田犬彦氏の自伝的な作品である「歳月の鉛」を読んでいた時に、西成彦という名前が登場しているのを見つけて懐かしかった。年が明けて、古い映画だが「屋根の上のバイオリン弾き」を観て感想を書いた。それで調べていたら岩波文庫の「牛乳屋テヴィエ」がやはり西成彦訳だった。この先生はポーランドが専門でもあるのでスタニスワフ・レムの本も訳している。


タルコフスキー監督の映画「惑星ソラリス」に話を戻すと、このかなり難解なソ連映画を観て複雑な気持ちになった。この映画の主人公はかつて妻に自殺されたことがトラウマになっている宇宙飛行士だ。彼が任務を受けて謎の惑星であるソラリス近くの宇宙ステーションに到達する。そこには生き残っていた仲間の宇宙飛行士たちもいるが、どうも雰囲気がおかしい。やがて惑星ソラリスが原因らしいことに気がつく。そのあたりのSF的説明は省くとして、印象深いのは自殺して死んだはずの妻がそこに登場することだ。そうして何が何やらわからないまま、この不思議な映画は終盤へとストーリーが展開する。わたしも含めて、ばついち経験のある観客にとっては複雑な気持ちになってしまう映画だ。


このタルコフスキー監督の映画を観て、学生の頃に読んだ手塚治虫の漫画「火の鳥 宇宙編」を連想せずにはいられなかった。こちらの物語でも主人公の宇宙飛行士は遠い星にたどり着く。しばらくは数人の仲間と一緒だが、やがて一人取り残されてしまう。孤独な異星人たちとの暮らしの中で、やさしい異星人の娘と愛が芽生える。幸せは長くは続かない。壊れたはずの宇宙船の通信装置が働いて地球との交信に成功した途端に、この絶望と孤独の中で愛したはずの異形の娘に対する疎ましさが募っていく。やがて悲劇が起きる。それが手塚治虫の物語の大筋だ。


このタルコフスキーの映画と手塚治虫の漫画の連想に意味があるのかどうか自信がない。哲学的と評される映画「惑星ソラリス」のどこかを理解していないせいでもあるような気がして、いつかこの映画を見直さなければと思ってきた。ポーランド語原作からの完訳である沼野訳を読むことで弾みがつけば良いのだがと願っている。