2016年1月21日木曜日

木乃伊と月山の話

展覧会のために中国からオランダに運ばれた仏像をCTスキャンで調べてみたら内部に人間の木乃伊が入っていることが分かったという話をニュースで読んだことがある。このようなことが起きるとすると、それがたった一体だけということもなさそうな気がする。世界中の仏像をCTスキャンしたらどれだけの数の木乃伊が出てくるのだろうか?

木乃伊の話をフェースブックでシェアすると片品村にお住まいの先輩から「森敦の「月山」を思い出した」という返信をいただいた。
この作家が長い放浪生活の後で芥川賞を受賞した時は大きな話題になった。だいぶ昔の話だ。この本に奥深い山の中で行き倒れた人の死体から木乃伊を作る話が出てくる。その昔から月山は「死者の行くあの世の山」とされてきたそうだ。

新井満という広告業界から転身して作家になり、作曲し、歌手でもあったこの人が小説の冒頭部分の歌詞に曲を付けた。ゆったりした美しい歌なので、今でも覚えている。この人は後年になって「千の風になって」というやはり死者をテーマにした英詩を、和訳し曲をつけて歌った。この人の歌声が好きだ。この人は新潟県の出身である。

司修の書評集「本の魔法」の中に「月山」が出てくる。小説「月山」の装丁をした人だ。装丁家であり、画家であり、小説も書いている。この人のエッセイが素晴らしい。月山が「死者の行く山」であり、「臥牛山」とも呼ばれることについての記述を紹介して「死とエロスの混じった生の匂いがしてくる」と書いている。母牛がゆったりと座った様子からの連想だろう。新潟県出身の小川未明が「牛女」という童話を書いたことと共通している。この童話については別のブログで書いた。

2016年1月6日水曜日

米原万里「真昼の星空」と丸山薫「美しい想念」

ロシア語同時通訳者の米原万里さんはエッセイストとしても名高い。2006年に病没したこの人は「真昼の星空」という随筆集の中でオリガ・ベルゴリツという人の「昼の星」という文章について書いている。「現実には存在するのに、多くの人の目には見えないものがある。。。「昼の星」はそういうもの全ての比喩であった。」 米原さんがお母さんにその話をすると、「日本にも昼行灯という言葉があるよ」と教えてもらったという思い出の記だ。

高校生の頃に読んだ丸山薫という詩人の「美しい想念」を思い出した。「夜空に星が煌めくように 真昼の空にも星がある さうおもふ想念ほど 奇異に美しいものはない。。。」。受験勉強に飽きると図書館で関係のない本を開いて気晴らしをしていた頃に、ノートに書き留めた好きな詩だ。今でも夜になると、仕事とは無関係の本が読みたくなる。人間の行動パターンというのは変わらない。


広いユーラシアのあちらこちらに住んでいる人たちが星を眺めて同じようなことを考えていた。なにかうれしい気持ちになる。


2016年1月5日火曜日

吉井勇と浅草の仁丹塔

吉井勇という明治生まれの浪漫派の歌人がいる。秋の歌も酒の歌も良い。この歌人が仁丹の看板のある風景を歌っていると鎌倉の父が教えてくれた。大正の頃の浅草は東京の中心であり、仁丹塔はランドマークだったようだ。仁丹の看板を子供の頃に見た記憶があるが、今時の日本で見かけることはなくなった。2011年の秋に台湾を訪問した時に店先で見つけて懐かしかった。

「東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹の灯よさらばさらばと」


「浅草の鳩も寂しく思ふらむ日頃見馴れしわれを見ぬため」


「うつくしき夜の色こそわすられねああ東京よすこやかにあれ」


祇園の情景を歌った一連の歌の中にもやはり仁丹の広告が出て来る。 


「かにかくに祇園は恋し寝(い)るときも枕のしたを水のながるる」


「仁丹の広告も見ゆ橋も見ゆああまぼろしに舞姫も見ゆ」





小川未明 「牛女」 生者と死者の境界の話

海と夕陽の写真から「黄昏時は生者と死者を隔てる境が曖昧になる時間だ」という話になった。 彼岸の世界にいるのは恐ろしいものばかりではない。会いたい人もいる。「赤い蝋燭と人魚」を書いた小川未明は新潟県上越市の出身だ。「牛女」という童話がある。気立てが良くて働き者の大柄な女の人がいた。耳が不自由だったことと、大柄なのを気にして、背を丸めるようにしていたのか「牛女」とよばれていたという物語である。この人にやがて男の子が生まれる。可哀そうなことに牛女は小さな子供を残して死んでしまう。医学も薬もまだ発達していなかった時代の話だ。夕暮れ時になると牛女の姿が光の具合で山に写るようになる。人々は牛女が子供のことを見守っているのだと言い、男の子は無事に大きくなる。牛臥山とか牛伏山という地名がいくつかあるから、どこの田舎にでもありそうな話だ。

男の子は成長すると故郷を離れて商人となり、成功して故郷に戻り、リンゴ栽培を始めた。ところが何年もうまくいかない。花が咲き、実が生り、いざ収穫の時期が近ついた頃になると害虫が大量に発生してリンゴは全滅してしまう。人々は今は成長したこの男に尋ねる。「何か供養すべき人で忘れているというようなことはないか?」。男はそれまで頼る人もなく生きてきて、死別した母のことを忘れていたことに気がつき、母にわびる。その年の秋もリンゴの実がなると害虫がやってきたが、その年は牛女の姿が映る山の方角から蝙蝠の群れが飛んできてリンゴの害虫を食べてしまう。死別した母の魂と子どもの再会の物語である。


青森県が舞台の映画「奇跡のリンゴ」を観ていて、小川未明の「牛女」の話を思い出していた。リンゴの原産地はコーカサスの辺りから中央アジアの天山山脈の辺りらしい。平安時代に中国から日本に伝わり、明治時代になって盛んに栽培されるようになったそうだ。青森県で全国の半分くらいを生産している。この映画では無農薬栽培を試みてなんども害虫対策に苦しんだリンゴ農家の苦労が描かれている。リンゴの害虫とその天敵のバランスのとれた環境作りに成功する場面が「牛女」に描かれている場面によく似ているのが印象的だった。


池澤夏樹 「母なる自然のおっぱい」 桃太郎について

池澤夏樹氏は好きな作家だ。芥川賞を受賞した「スティル・ライフ」、「夏の朝の成層圏」、「マリコ/マリキータ」などいくつか懐かしい作品がある。「ブッキッシュな世界像」という書評も印象に残っている。池澤氏の桃太郎に関する文章が教科書にふさわしいかどうかが新聞で話題になったことがある。池澤氏はエッセイ集「母なる自然のおっぱい」(1993年) の中で「狩猟民の心」という文章を書いている。日本のヒーロー物語である「桃太郎」の話は、よその国に出かけ行って、そこに住んでいる人々を退治してしまう侵略の物語でもあるという趣旨の指摘がなされている。池澤氏は北海道で生まれ、ギリシャに住み、南の島を舞台にしていくつかの小説を書いた人だ。「狩猟民の心」は北海道のアイヌの人々のことを意識して書かれている。中央に住む人々の物の見方がすべて正しいとは限らないことについて指摘した文明批評の文章だ。

この本の文庫版(1995年、新潮文庫)のあとがきに、「福沢諭吉がまったく同じことを書いていたことに気がついた」と池澤氏は書いている。明治4年(1871年)に書いた「日々のおしえ」という文章の中にも、桃太郎に関する記述がある。「鬼が悪いことをしたのなら、それを退治するのは良いことだ。しかしその宝物を持ち帰りおじいさんとおばあさんにあげたのでは、ただ欲のための仕事であり、卑劣千万なり」という批判だ。これは立場を変えて物事を見るということ以上に、正しい動機で始まった行為が、その遂行の過程で変質する可能性についての鋭い指摘でもある。

昨年の新聞広告クリエーティブ・コンテストで最優秀賞を取った山崎博司氏のコピーのことを思い出した。「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」というコピーは様々なメディアで紹介されていた。物事を両方の立場から見ることの大切さを訴えた力のあるコピーだ。山崎氏はシリア内戦に対するアメリカの軍事介入がきっかけになって、このコピーを書いたとインタビューで答えている。

桃太郎侍が悪党をバッサリやっつけたり、水戸の御老公が悪代官を懲らしめたり、遠山の金さんが人助けをしたら気分が良い。善のメタファーとしての善玉ヒーローがいる。悪のメタファーとしての悪役ヒールがいる。それを決まり事として受け入れてから、勧善懲悪の時代劇は成立する。現実には桃太郎と鬼が様々な理由でマスクを付け替えたりして、中身が変わっている場合もあるだろう。これは例えて言えば、外交交渉の代表団が、国益を守るために鬼神が乗り移った如くの激論を戦わせ、ようやく落としどころで合意した後で、本国にもどったら別の表情で、別の言い方をする必要があることにも似ている気がする。桃太郎の鬼退治が侵略でいけないのであれば、熊を相撲で負かした金太郎は動物虐待で、弁慶を負かした牛若丸は宗教弾圧になりそうなものだが、こちらの話はまだ聞こえてこない。


ジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」

最初に勤めた会社に入って5年が過ぎた頃アメリカに行くことばかり考えていた。現場を経験させるという会社の方針で埼玉県越谷市の営業所と浦和の支店で3年間を過ごした後で東京の本社に戻ってきた。それからの数年は滅茶苦茶に忙しい思いをした。内幸町の本店勤務は燃料の調達部門だった。海外の業界新聞や専門誌を読んで仕事に関係のある材料を集め月報の特集記事を書いた。仕事は面白かった。営業所にいた頃は仕事を覚えることに加えて、酒の付き合いも多かった。本を読む時間もない生活を3年続けると、いくら何でも生活を変えたいと思うようになった。一度目の結婚もその頃経験している。

燃料部にきて最初にやらされたのが石炭の高効率利用についての国際会議のパンフになっていた小冊子を訳すことだった。10日くらいかけて夜と週末で何とか和訳した。まだワープロが職場で使われる前の話だったので、手書きで分厚い紙の束になった。今から思えば冒頭のサマリーを数ページまとめるだけで済む話だから、地方の現場から、本店に配属された新人を手荒く歓迎してみただけなのだろう。この部局では夕方になると幹部たちが新橋のバーで酒を飲んだり、麻雀をしながら仕事の話をしていたのでそれにも付き合った。

平日の自由時間は限られていたので、英語が上手くなるためには何をすべきかとばかり考えていた。書店の英語コーナーでは松本道弘という「英語道の達人」の書いた本が良く売れていた。この人のやり方をいろいろ真似してみた。オーソン・ウェルズの渋い声が魅力的なイングリッシュアドベンチャーのテープも一生懸命聴いていた。国際コミュニケーションズという英語教育のプログラムも受講した。土曜日に赤坂見附でカナダ人の先生とのグループレッスンを受けるのが楽しみになった。

週末には新宿の紀伊国屋や神田の三省堂の洋書コーナーを訪ねた。何か一冊英語で読み通すべきだと思った。そんな頃にジェームズ・ボールドウィンの「もう一つの国」 (Another Country)を見つけた。主人公のカップルが多色の背景に浮き出ている表紙が刺激的だった。かなり厚いペーパーバックで三部構成になっていた。第一部の舞台はニューヨーク。黒人ミュージシャンのルーファスと白人のレオーナ。友人の作家ヴィヴァルドとその妻キャスが重要な役割を果たす。第二部はヴィヴァルドとキャスの関係について。キャスは夫に幻滅し始め、若い俳優エリックに魅かれてしまう。第三部はエリックとその友人イヴのゲイのカップルの話。当時の語彙力では苦労したが、面白い本なので読み通した。

若い頃は第一部の黒人ミュージシャンのルーファスに感情移入した。だいぶ年齢を重ねて興味を持ったのが第二部の主人公であるキャスだ。この人はクラリッサという本名を持っている。英語圏ではとても上品な名前らしく、照れくさいので通称を使っている。この人の他者との関わり方を象徴してもいる。粋なニューヨーカーとしてのキャスは作家である知的な夫ヴィヴァルドに満足しているが、自分探しの道で迷っているクラリッサとしては覇気の足りない夫に幻滅を感じ始める。人種、夫婦、ゲイのカップルと様々なテーマが盛り込まれ、緊張感に満ちた物語は鮮烈だった。

途上国で引っ越しを繰り返している内にぼろぼろになったので、不思議な絵が表紙となっていた本を処分してしまい残念だ。Penguin Classicsで大判で昔より読みやすい本が出ている。今度は失くさないように2冊買って愛蔵している。


マリオ・バルガス・リョサ 「悪い娘の悪戯」

マリオ・バルガス・リョサ「悪い娘の悪戯」(八重樫克彦・八重樫由貴子訳)の表紙絵がすごい。この本の帯には「ノーベル文学賞作家が描き出す壮大な恋愛小説」とある。普通だったらなんて悪趣味なタイトルかと思って敬遠してしまうところだ。グレアム・グリーン「情事の終わり」についても同じことが言える。もう少し抒情的なタイトルにしてくれないと買うのも、電車で読むのにも困るが、両方とも読み応えのある本だ。

気の良い主人公が小悪魔のような娘にこれでもか、これでもかとひどい目にあう。それでも魅かれる感情を制御できない。このヒロインは本当に性悪だ。ところがこの主人公は心のどこかでこの悪の女王様を崇拝している。主人公にとってこのヒロインはもはや当たり前の人間存在ではない。神に近いものだ。この荒ぶる神は時々途方もない荒れ方をする。それは津波のようなものであり、噴火のようなものだ。人智を超えた世界だから善悪の彼岸にある。この類のヒロイン像はどこかで読んだことがある。モームの「人間の絆」の世界ではないか。イギリスの作家とペルーの作家がおそらく若い頃に同じように痛い思いをして、同じような構造の本を書いている。


この本の表紙になっているのは「ユリシーズに杯を差し出すキルケ」という題の絵だ。この本の裏表紙には「嫉妬に燃えるキルケ」という意味あり気な絵が使われている。どちらも英国のラファエロ前派の画家 J.W.ウォーターハウスの作品だ。とてもしゃれた選択だ。この本は「運命の女 ファム・ファタール」の物語であり、とてつもない美しさと、男の心を踏みにじる残忍さと、男が逃げていくことは許さない独占欲の強さにおいてまさに人間の領域を越えた美女の物語だ。キルケという妖精に魅入られた男たちは様々な動物に変身させられてしまう。英雄ユリシーズはこの妖精の術にはまることなく豚になった仲間たちを救い出す。魔女により変身させられてしまう物語はいろいろあるが、美女の誘惑と異形のものと化して側近となる男たちについては日本にも泉鏡花の「高野聖」がある。


ユリシーズというのはローマ神話の英雄でギリシャ神話のオデュッセウスのラテン語名が英語化したものだ。中学校の英語の教科書にオデゥッセウスが妖精カリプソに別れを告げる場面が出てきた。この二枚目の英雄はやたら美女に気に入られて引き止められが、そのうち別れの時が来る。ウォーターハウスは古代の神話や伝説をテーマにした絵をたくさん描いた画家だ。ロンドンに赴任したばかりの頃に「エコーとナルシス」のレプリカを買った。あちこちの国を転々としたが、今でも部屋に飾ってある。