2016年1月5日火曜日

ジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」

最初に勤めた会社に入って5年が過ぎた頃アメリカに行くことばかり考えていた。現場を経験させるという会社の方針で埼玉県越谷市の営業所と浦和の支店で3年間を過ごした後で東京の本社に戻ってきた。それからの数年は滅茶苦茶に忙しい思いをした。内幸町の本店勤務は燃料の調達部門だった。海外の業界新聞や専門誌を読んで仕事に関係のある材料を集め月報の特集記事を書いた。仕事は面白かった。営業所にいた頃は仕事を覚えることに加えて、酒の付き合いも多かった。本を読む時間もない生活を3年続けると、いくら何でも生活を変えたいと思うようになった。一度目の結婚もその頃経験している。

燃料部にきて最初にやらされたのが石炭の高効率利用についての国際会議のパンフになっていた小冊子を訳すことだった。10日くらいかけて夜と週末で何とか和訳した。まだワープロが職場で使われる前の話だったので、手書きで分厚い紙の束になった。今から思えば冒頭のサマリーを数ページまとめるだけで済む話だから、地方の現場から、本店に配属された新人を手荒く歓迎してみただけなのだろう。この部局では夕方になると幹部たちが新橋のバーで酒を飲んだり、麻雀をしながら仕事の話をしていたのでそれにも付き合った。

平日の自由時間は限られていたので、英語が上手くなるためには何をすべきかとばかり考えていた。書店の英語コーナーでは松本道弘という「英語道の達人」の書いた本が良く売れていた。この人のやり方をいろいろ真似してみた。オーソン・ウェルズの渋い声が魅力的なイングリッシュアドベンチャーのテープも一生懸命聴いていた。国際コミュニケーションズという英語教育のプログラムも受講した。土曜日に赤坂見附でカナダ人の先生とのグループレッスンを受けるのが楽しみになった。

週末には新宿の紀伊国屋や神田の三省堂の洋書コーナーを訪ねた。何か一冊英語で読み通すべきだと思った。そんな頃にジェームズ・ボールドウィンの「もう一つの国」 (Another Country)を見つけた。主人公のカップルが多色の背景に浮き出ている表紙が刺激的だった。かなり厚いペーパーバックで三部構成になっていた。第一部の舞台はニューヨーク。黒人ミュージシャンのルーファスと白人のレオーナ。友人の作家ヴィヴァルドとその妻キャスが重要な役割を果たす。第二部はヴィヴァルドとキャスの関係について。キャスは夫に幻滅し始め、若い俳優エリックに魅かれてしまう。第三部はエリックとその友人イヴのゲイのカップルの話。当時の語彙力では苦労したが、面白い本なので読み通した。

若い頃は第一部の黒人ミュージシャンのルーファスに感情移入した。だいぶ年齢を重ねて興味を持ったのが第二部の主人公であるキャスだ。この人はクラリッサという本名を持っている。英語圏ではとても上品な名前らしく、照れくさいので通称を使っている。この人の他者との関わり方を象徴してもいる。粋なニューヨーカーとしてのキャスは作家である知的な夫ヴィヴァルドに満足しているが、自分探しの道で迷っているクラリッサとしては覇気の足りない夫に幻滅を感じ始める。人種、夫婦、ゲイのカップルと様々なテーマが盛り込まれ、緊張感に満ちた物語は鮮烈だった。

途上国で引っ越しを繰り返している内にぼろぼろになったので、不思議な絵が表紙となっていた本を処分してしまい残念だ。Penguin Classicsで大判で昔より読みやすい本が出ている。今度は失くさないように2冊買って愛蔵している。


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