2015年4月21日火曜日

村上春樹「海辺のカフカ」を2015年に読んだ

村上春樹が20世紀の終わりまでに書いた9つの長編は全部読んでいる。フェースブックの知人たちの間で話題になっていた10本目の長編「海辺のカフカ」(2002年)を読んでみた。宮沢りえがヒロイン佐伯さんの役を演じる蜷川幸雄の舞台が2015年5月にロンドンで上演されることもあり、どんな物語なのか知りたくなったからだ。

1979年に村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューした年に、わたしは学校を終えて社会人になった。この人の本はそれから読み続けているので長い付き合いだ。好きな作品を3つ選ぶとしたら「風の歌を聴け」、「羊をめぐる冒険」、「国境の南、太陽の西」ということになる。1987年の「ノルウェイの森」で、この小説家は社会現象となり、誰もが読むようになった。照れくさいこともあって、少し距離を置くようになった。50歳になった頃から、もう一度村上春樹に興味を持った。その頃は外国で仕事をするようになっていて、訪ねた国々の書店でこの人の本に再会したからだ。ロンドンでも、サンクトペテルブルグでも、スコピエでも、ビシュケクでも村上春樹の本は書店に積まれていた。知り合いも読んでいた。この根強い人気の理由は何だろうかと考えるようになった。

「羊をめぐる冒険」などいくつかの長編を例にとれば、村上春樹の本には普遍的なテーマと明確な構成がある。あちらとこちらの世界の間で迷いがちな主人公がいて、物語は二つの世界でパラレルに進行する。小説は短い章立てで二つの世界が順番に切り替わる。別の世界への「入り口」として古井戸やら、深い森やら、高速道路の非常階段やらが登場する。主人公は読者を巻き込んで「自分は誰なのか」「自分はどちらに属しているのか」などの疑問の解明するために探し物をしたり、人を探したりする。想いを残したままこの世を突然去ることになった人々は、あの世でもこの世でもない境界に「不完全な死者」として浮遊している。残された人が突然消え去った人に向ける強い想いが、浮遊する者たちをこちら側の世界に誘い出す。失われた者と残された者が再会できると、ようやく葬送の儀礼が完結するので、思い残すことなくあの世へ旅立つことができる。これらのパターンは多くの長編作品に共通している。それは世界中のどこでも理解されやすい共通の主題だ。

「海辺のカフカ」には主要な登場人物として佐伯さんという中年の女性とナカタさんという初老の男性が登場する。面白いのはこの二人ともが半分だけしか影をもっていないことだ。それぞれが理由があってとっくに死んでいてもおかしくない「不完全な死者」たちだ。彼らをきちんと送り出す人がいないので生きているような、死んでいるような曖昧な状態で生きている。この本はこの二人の「あいまいな人たち」が主人公の少年に関わる物語だ。幼い頃に母を失ったこの少年はきちんと別れの挨拶をしていないことがトラウマになっている。そのことでエキセントリックな父親を憎んでもいる。

この本の中では佐伯さんが主人公の母親なのかどうかは明示されていない。佐伯さんが生きている人間ならばそれは解明されるべき問題のはずだ。しかしこの本では佐伯さんは「不完全な死者」であり、ふつうの人間ではない。強い想念から生じたエネルギーが幽霊と呼ばれる現象だとすれば、一人のヒロインが中年の佐伯さんでもあり、15歳の少女でもあり、主人公の母かも知れないこの物語の理解がしやすくなる。「もういちど村上春樹にご用心」を書いた内田樹は「村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。」と述べて、村上春樹は「雨月物語」の上田秋成の後継者であると指摘している。「海辺のカフカ」の中でも「雨月物語」の「菊花の約」が引用されている。佐伯さんが学生運動に巻き込まれて死んだ恋人を想い続ける姿は「菊花の約」を連想させる。一方で、中年の佐伯さんが少年の母であり、捨てた子に一目でも会ってからでなければ成仏できなかったという見方をすると「浅茅が宿」で自分を捨てて都に上った夫を待ち続け、再会を果たした翌朝に成仏して消えてしまう女性の想念の強さを思い出す。


ナカタさんという猫語を理解できる不思議な男性もこの物語で重要な役割を果たす。幼い頃に森の奥でUFOのような存在に出会い、その時のショックでとっくに死んでいてもよさそうなナカタさんは、たまたま二つの世界を隔てる通路から迷い出て、こちらの世界で生きている。殺されかけた知合いの猫たちを守ることと、主人公の少年が無意識に父親に抱いたのかも知れない殺意をあたかも吸収するかのようにして、少年の父親を殺してしまう。もう一つナカタさんが果たす役割は、主人公の少年に別の世界への通路を示すことだ。ナカタさんがいろいろ不思議な力を持っていることも、この人がこの世界に住む人ではなく、こちら側に迷いこんできた「不完全な死者」だったと考えると理解しやすくなる。

この小説で謎めいているのは主人公の少年とナカタさんの関係だ。村上春樹のこれまでの長編ではパラレルに進行する二つの世界のそれぞれの主役たちは、お互いに深く関わり合う人たちだ。ところがこの少年とナカタさんには、そうした関係がない。この点で「海辺のカフカ」は他の長編作品と異なる。あえて解釈を試みればこの小説の中で「源氏物語」の六条御息所の話が引用されていることに注目すべきだろう。これは人間の想念が生霊となって人を取り殺すことで有名な話だが、この話が他の怨霊話と違うのは六条御息所のエネルギーが夢魔となって本人が意識しないまま行動してしまうにも関わらず、我に返った本人にはその行動の自覚がなく、それを知った後ではその怖ろしい行動に愕然としてしまう点だ。

母を失った原因として漠然と父を憎んでいた少年の想いが、どこかでナカタさんに伝わり、ナカタさんが殺人の実行犯になるが、少年はその犯罪の計画にも実行にも関わってはいない。それではナカタさんはなぜそのような行動をとり得るのかと言えば、答は一つしかない。ナカタさんは生きた人間ではないのだ。子供の頃の事故でとっくに死んでいたはずの「不完全な死者」なので特殊な能力を持ち得ると考えればわかり易い。人間でないものたちとも会話することも、遠く離れた少年の想念をわがものとすることもそれなら可能だ。


もう一人の登場人物がいる。少年を助け、愛する存在としてのさくらさんという女性だ。この人の登場の仕方は部分的なので、少年がなぜさくらさんを自分の姉のように思ったのかの説明が十分でない。最後の方でこの二人が関係をもつ場面が登場する。このエピソードは夢の中での話となっていて、夢と現実の境界があいまいな世界で起きる佐伯さんとの交渉とは異なっている。おそらくは父殺しをテーマとするこの小説を、ギリシャ神話のオイディプスの物語に重ねようとして無理に付け足したエピソードのような感じが強い。


「こちらの世界」と「あちらの世界」で引き裂かれ、自分を喪失しかねない不安定な主人公を描く村上春樹の物語には、必ず主人公をこの世界に引き留めようとする者たちが登場する。村上作品の読者にとってはさくらさんはとてもなじみのあるキャラクターだ。途方にくれる少年を「好きだからに決まってるでしょ」と迎える場面は「ノルウェイの森」で「不完全な死者」たちとの付き合いで消耗しつくした主人公の帰還を優しく迎えた緑の言葉と同じものだ。「ノルウェイの森」のヒロイン直子も「不完全な死者」そのものなので、この本の佐伯さんのイメージに重なるところがある。佐伯さんの友人である大島さんは直子の友人であるレイコさんのイメージに良く似ている。これだけ共通点があると2002年の「海辺のカフカ」が1987年の「ノルウェイの森」の別バージョンであることはほぼ明らかだと思われる。


2015年4月18日土曜日

村上龍 「69 sixty nine」 と 「はじめての夜 二度目の夜 最後の夜」

村上龍は1952年の早生まれなので学年で言うと5年の違いがある。この人が1976年に「限りなく透明に近いブルー」でデビューして、いきなり芥川賞をとってから10年くらいは新刊が出るのが楽しみだった。物凄くかっこよくて大人の感じがする若い小説家だった。1980年の「コインロッカーベイビーズ」にしても、1985年の「テニスボーイの憂鬱」にしても、淡々と語られる乾いた物語の感じがそれまで読みなれていた私小説風の純文学作品とは違って、新鮮だった。70年代後半から80年代にかけての文壇のヒーローだったと思う。この人のことをかなり気に入っていたはずだが、1991年に日本を離れてしまってからは、長い間この人の本を読まなかった。

村上龍が自分の高校時代を描いた小説「69 sixty nine」は最高に面白い。1969年に17歳で高校3年生だった時の記憶を18年後の1987年に35歳の小説家として書いた本だ。これは地下鉄など公共の場所で読むのは考えた方がいい。何度も吹き出してしまった。夜の学校に忍び込んでバリケード封鎖をやるついでに侵入した校長室での事件の話とか、初恋の同期生にドキドキする場面とか何度も途中で吹き出してしまうような場面が登場するが、読み終わると何とも言えないしみじみとした印象が残る。


村上龍はさらに10年近く経った1996年に「はじめての夜、二度目の夜、最後の夜」を書いている。ほろ苦さの際立つ恋愛小説で話の展開の道具として料理とワインがちりばめてある。この本を読んだのは、わたしが途上国勤務をしていた頃だ。中央アジアとバルカン半島の合計で12年余りをほとんど日本人のいない国々で過ごした。その後半の頃から、日本を懐かしむ気持ちと日本語の小説を読みたい気持ちが強くなっていった。豪華なレストランのお洒落な料理が次々と登場する。そのテーブルに座っているのは著者らしき主人公と彼の中学時代の初恋の女性だ。アオキミチコというカタカナになっているのは必ずしも現実の初恋の女性ではなく、20年以上経ってからの再会で、主人公にとってもそのテーブルに座っている女性が現実の彼女なのか、思い出の中で再構成された架空の彼女なのか曖昧なところがあるのだろう。

1980年代に読んだ村上龍作品とは大きく異なっている。何とも言えない静けさが全編を通じて漂っている。有名作家になった主人公のところに中学時代の同級生が連絡してくる。懐かしい再会だ。彼女は初恋の人だった。「はじめての夜」でのディナーの終わりに主人公はドキドキしている自分に気が付いてあわてる。その勢いで「二度目の夜」がやってくる。この初恋の女性は作家になった同級生への対抗心みたいなものに駆られて、ダイエットで8㎏も絞ったのみならず、派手めのお洒落をして、再登場する。誘惑しようという気があった訳でもないだろう。今は作家になったその男が、昔自分に夢中だったことをおぼろげに知っているはずだ。もう一度自分に振り向かせてみたいという意地もあるだろう。長い時間を経て再会した二人の物語はほろ苦い。「最後の夜」はもっと微妙だ。主人公の作家は自分の目の前にいる女性とかつての記憶の間で、ほとんど意識が錯綜し始める。一方で女性は、自分には家庭があるので関係を続ける気はないことをどうやって伝えたら良いだろうかと考えるのに忙しい。このあたりの気持ちのすれ違いが、可笑しくて、哀しい。


この主人公はアオキミチコと二度目に会う時に、高校の頃に憧れていた女性のことを思いだしている。こちらの女性は一時期は主人公と付き合っていたが、やがて年上の男と結婚してドイツに住んでいる。この女性が「69 sixty nine」に登場するレディジェーンであることは明らかだ。「はじめての夜。。。。」の解説を書いている小説家の村山由佳の指摘が鋭い。「中学時代の同級生という設定のアオキミチコと、彼の高校時代の想い人であるレディージェーン松井和子は、ぴったりと二重写しに見える。おそらく、村上氏にとって彼女たちは「永遠に女性なるもの」の代表なのだ。」 この指摘は、男たちがどうして何度も「本気の恋」ができるのかについての鋭い考察だ。


2015年4月16日木曜日

浅田次郎 「終わらざる夏」

この本は2010年に出版され、その後、集英社文庫(上・中・下で三巻)に入っている。第二次大戦が1945年の815日に無条件降伏で終わったにも関わらず、北の果てのカムチャッカ半島に向き合う占守島(シュムシュ島)で、終戦の3日後の戦闘で死んでいった人たちの物語だ。終章を入れると9章に及ぶ長い物語だが、戦闘場面は終わりに少し出てくるだけだ。

自分たちの住んでいる土地が戦場になって犠牲になった人たちは気の毒だ。召集令状をもらって軍役について犠牲になった人たちも気の毒だ。だがこの小説の主人公とも言うべき3人の男たちももっと奇妙な形で気の毒だ。三人とも通常なら召集されないような状態にあった人たちだった。一人は45歳の東京外国語学校 (東京外大の前身)卒の翻訳書の編集者だ。もう召集令状が来る歳ではなかった。もう一人は医学専門学校から実力を認められて、帝大に移った医者で、通常なら召集免除となる身分だった。もう一人はすでに数回にわたり召集され、名誉の負傷もしているので、通常なら再々召集されるはずのない老兵だ。この三人は終戦が近いことを知っていた軍の上層部の密命により、やがて占守島が連合軍の攻撃を受けた時の対応要員としてわざわざ終戦間際にこの島に派遣されることになる。おまけに英語使いの主人公が、ロシアに近い前線における「来たるべき終戦交渉」に起用されたことでも、当時の軍の上層部に第二次大戦全体の戦況が把握できてなかったことが明らかだ。

この物語はおよそ召集されるはずのなかった3人の人間とその家族が、815日に戦争が終わり、間もなく自由な生活を取り戻すはずだったのに、「終戦後の戦い」で死んで行くに至るまでの戦時下の生活を淡々と描いている。三人三様でそれぞれ興味深いが、英語使いの主人公とその妻の戦前の出会いや戦中の生活が興味深く描かれている。この主人公は翻訳書の出版社に勤めながらいつかヘンリー・ミラーの「セクサス」訳を日本に紹介することを夢見ていた。そういう風に生きていた人たちの夢が淡々と描かれ、あるはずのない終戦後の戦いで突然中断されることで、静かな抗議の本になっている。何とも言えない強い読後感の残る本だ。

この本の中で数度にわたり、宮沢賢治の「星めぐりの歌」と「雨ニモマケズ」が引用されている。誰も泣き叫んだりしない、誰も大声で争ったりしないとても静かな物語の中で、死んで行く人たちの葬送の詩のように使われていて心に残る。

2015年4月7日火曜日

沢木耕太郎 「世界は「使われなかった人生」であふれてる」

この映画についてのエッセイ集は幻冬舎文庫に入っている。この本は暮らしの手帳社から2001年に刊行された。ここに登場する映画は80年代の作品が多い。沢木耕太郎は1947年生まれなので、この人が50歳を越えた頃に自分の思い出に残る作品について自由に思い浮かぶことを書いたエッセイ集だ。映画がたくさんある中で確実に面白い映画にたどり着く方法としては、自分と波長の合う「映画好きな人」を見つけて、その人の勧める作品を観てみることが一番の早道だろう。この文庫本は日本に帰った時に「沢木耕太郎の映画評」を検索して見つけた。

この人に興味をもつきっかけとなったのは2013年の末に日本で公開された「鑑定士と顔のない依頼人」(ジュゼッペ・トルナトーレ監督)というイタリア映画だ。沢木耕太郎がこの作品について書いた文章を読んで感心してしまった。「今年の一作」として絶賛したこの映画を「2度観ると味わいが変わる映画」と書いている。すぐにアマゾンで注文した。最高に面白い映画だった。最後のどんでん返しが強烈だ。結末を知った後で始めからもう一度観たくなる。この主人公に起きたことが果たして幸なのか、不幸なのか2度か3度観て考えたくなるかも知れない。

このエッセイ集が変わっているのは、目次に映画の題名が出てこないことだ。32編の文章にはそれぞれ小見出しのようなタイトルがついている。沢木耕太郎はあとがきで書いている。「この「映画評」が批評でないのは無論のこと、もしかしたら感想文ですらないのかもしれない。わたしにとってこの一連の文章を書く作業は。心地よい眠りのあとで楽しかった夢を反芻するようなものだった。。。ともあれ、大事なことはその「夢」の面白さが読み手にうまく伝わることである。」 それで自分がよく知っていて、こだわりを持っているいくつかの作品について沢木耕太郎の文章を読んでみた。


冒頭の「世界は「使われなかった人生」であふれてる」に出てくるのがルイス・ギルバート監督の「旅する女 シャーリー・バレンタイン」(1989年、英・米合作映画)。これは良い映画だ。3編目の「薄暮の虚無」はアン・タイラーの原作で、ローレンス・カスダン監督の「偶然の旅行者」(1988年、米国)。それぞれ人気が出始めた頃のウィリアム・ハートとジーナ・デイビスの魅力が光る作品だ。4編目の「にもかかわらず、よし」がラッセ・ハルストレム監督の出世作「マイ・ライフ・アズ・ア・ドッグ」(1985年、スエーデン)。これは文句なしの傑作だ。この3編を読むだけでも、この文庫本を買う価値はありそうだ。この後の部分では良く知られている作品と、聞いたことのない玄人好みの作品が登場するが、この人のエッセイを読むとどれも観てみたくなる。