村上春樹が20世紀の終わりまでに書いた9つの長編は全部読んでいる。フェースブックの知人たちの間で話題になっていた10本目の長編「海辺のカフカ」(2002年)を読んでみた。宮沢りえがヒロイン佐伯さんの役を演じる蜷川幸雄の舞台が2015年5月にロンドンで上演されることもあり、どんな物語なのか知りたくなったからだ。
1979年に村上春樹が「風の歌を聴け」でデビューした年に、わたしは学校を終えて社会人になった。この人の本はそれから読み続けているので長い付き合いだ。好きな作品を3つ選ぶとしたら「風の歌を聴け」、「羊をめぐる冒険」、「国境の南、太陽の西」ということになる。1987年の「ノルウェイの森」で、この小説家は社会現象となり、誰もが読むようになった。照れくさいこともあって、少し距離を置くようになった。50歳になった頃から、もう一度村上春樹に興味を持った。その頃は外国で仕事をするようになっていて、訪ねた国々の書店でこの人の本に再会したからだ。ロンドンでも、サンクトペテルブルグでも、スコピエでも、ビシュケクでも村上春樹の本は書店に積まれていた。知り合いも読んでいた。この根強い人気の理由は何だろうかと考えるようになった。
「羊をめぐる冒険」などいくつかの長編を例にとれば、村上春樹の本には普遍的なテーマと明確な構成がある。あちらとこちらの世界の間で迷いがちな主人公がいて、物語は二つの世界でパラレルに進行する。小説は短い章立てで二つの世界が順番に切り替わる。別の世界への「入り口」として古井戸やら、深い森やら、高速道路の非常階段やらが登場する。主人公は読者を巻き込んで「自分は誰なのか」「自分はどちらに属しているのか」などの疑問の解明するために探し物をしたり、人を探したりする。想いを残したままこの世を突然去ることになった人々は、あの世でもこの世でもない境界に「不完全な死者」として浮遊している。残された人が突然消え去った人に向ける強い想いが、浮遊する者たちをこちら側の世界に誘い出す。失われた者と残された者が再会できると、ようやく葬送の儀礼が完結するので、思い残すことなくあの世へ旅立つことができる。これらのパターンは多くの長編作品に共通している。それは世界中のどこでも理解されやすい共通の主題だ。
「海辺のカフカ」には主要な登場人物として佐伯さんという中年の女性とナカタさんという初老の男性が登場する。面白いのはこの二人ともが半分だけしか影をもっていないことだ。それぞれが理由があってとっくに死んでいてもおかしくない「不完全な死者」たちだ。彼らをきちんと送り出す人がいないので生きているような、死んでいるような曖昧な状態で生きている。この本はこの二人の「あいまいな人たち」が主人公の少年に関わる物語だ。幼い頃に母を失ったこの少年はきちんと別れの挨拶をしていないことがトラウマになっている。そのことでエキセントリックな父親を憎んでもいる。
この本の中では佐伯さんが主人公の母親なのかどうかは明示されていない。佐伯さんが生きている人間ならばそれは解明されるべき問題のはずだ。しかしこの本では佐伯さんは「不完全な死者」であり、ふつうの人間ではない。強い想念から生じたエネルギーが幽霊と呼ばれる現象だとすれば、一人のヒロインが中年の佐伯さんでもあり、15歳の少女でもあり、主人公の母かも知れないこの物語の理解がしやすくなる。「もういちど村上春樹にご用心」を書いた内田樹は「村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。」と述べて、村上春樹は「雨月物語」の上田秋成の後継者であると指摘している。「海辺のカフカ」の中でも「雨月物語」の「菊花の約」が引用されている。佐伯さんが学生運動に巻き込まれて死んだ恋人を想い続ける姿は「菊花の約」を連想させる。一方で、中年の佐伯さんが少年の母であり、捨てた子に一目でも会ってからでなければ成仏できなかったという見方をすると「浅茅が宿」で自分を捨てて都に上った夫を待ち続け、再会を果たした翌朝に成仏して消えてしまう女性の想念の強さを思い出す。
ナカタさんという猫語を理解できる不思議な男性もこの物語で重要な役割を果たす。幼い頃に森の奥でUFOのような存在に出会い、その時のショックでとっくに死んでいてもよさそうなナカタさんは、たまたま二つの世界を隔てる通路から迷い出て、こちらの世界で生きている。殺されかけた知合いの猫たちを守ることと、主人公の少年が無意識に父親に抱いたのかも知れない殺意をあたかも吸収するかのようにして、少年の父親を殺してしまう。もう一つナカタさんが果たす役割は、主人公の少年に別の世界への通路を示すことだ。ナカタさんがいろいろ不思議な力を持っていることも、この人がこの世界に住む人ではなく、こちら側に迷いこんできた「不完全な死者」だったと考えると理解しやすくなる。
この小説で謎めいているのは主人公の少年とナカタさんの関係だ。村上春樹のこれまでの長編ではパラレルに進行する二つの世界のそれぞれの主役たちは、お互いに深く関わり合う人たちだ。ところがこの少年とナカタさんには、そうした関係がない。この点で「海辺のカフカ」は他の長編作品と異なる。あえて解釈を試みればこの小説の中で「源氏物語」の六条御息所の話が引用されていることに注目すべきだろう。これは人間の想念が生霊となって人を取り殺すことで有名な話だが、この話が他の怨霊話と違うのは六条御息所のエネルギーが夢魔となって本人が意識しないまま行動してしまうにも関わらず、我に返った本人にはその行動の自覚がなく、それを知った後ではその怖ろしい行動に愕然としてしまう点だ。
母を失った原因として漠然と父を憎んでいた少年の想いが、どこかでナカタさんに伝わり、ナカタさんが殺人の実行犯になるが、少年はその犯罪の計画にも実行にも関わってはいない。それではナカタさんはなぜそのような行動をとり得るのかと言えば、答は一つしかない。ナカタさんは生きた人間ではないのだ。子供の頃の事故でとっくに死んでいたはずの「不完全な死者」なので特殊な能力を持ち得ると考えればわかり易い。人間でないものたちとも会話することも、遠く離れた少年の想念をわがものとすることもそれなら可能だ。
もう一人の登場人物がいる。少年を助け、愛する存在としてのさくらさんという女性だ。この人の登場の仕方は部分的なので、少年がなぜさくらさんを自分の姉のように思ったのかの説明が十分でない。最後の方でこの二人が関係をもつ場面が登場する。このエピソードは夢の中での話となっていて、夢と現実の境界があいまいな世界で起きる佐伯さんとの交渉とは異なっている。おそらくは父殺しをテーマとするこの小説を、ギリシャ神話のオイディプスの物語に重ねようとして無理に付け足したエピソードのような感じが強い。
「こちらの世界」と「あちらの世界」で引き裂かれ、自分を喪失しかねない不安定な主人公を描く村上春樹の物語には、必ず主人公をこの世界に引き留めようとする者たちが登場する。村上作品の読者にとってはさくらさんはとてもなじみのあるキャラクターだ。途方にくれる少年を「好きだからに決まってるでしょ」と迎える場面は「ノルウェイの森」で「不完全な死者」たちとの付き合いで消耗しつくした主人公の帰還を優しく迎えた緑の言葉と同じものだ。「ノルウェイの森」のヒロイン直子も「不完全な死者」そのものなので、この本の佐伯さんのイメージに重なるところがある。佐伯さんの友人である大島さんは直子の友人であるレイコさんのイメージに良く似ている。これだけ共通点があると2002年の「海辺のカフカ」が1987年の「ノルウェイの森」の別バージョンであることはほぼ明らかだと思われる。
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