村上龍は1952年の早生まれなので学年で言うと5年の違いがある。この人が1976年に「限りなく透明に近いブルー」でデビューして、いきなり芥川賞をとってから10年くらいは新刊が出るのが楽しみだった。物凄くかっこよくて大人の感じがする若い小説家だった。1980年の「コインロッカーベイビーズ」にしても、1985年の「テニスボーイの憂鬱」にしても、淡々と語られる乾いた物語の感じがそれまで読みなれていた私小説風の純文学作品とは違って、新鮮だった。70年代後半から80年代にかけての文壇のヒーローだったと思う。この人のことをかなり気に入っていたはずだが、1991年に日本を離れてしまってからは、長い間この人の本を読まなかった。
村上龍が自分の高校時代を描いた小説「69 sixty nine」は最高に面白い。1969年に17歳で高校3年生だった時の記憶を18年後の1987年に35歳の小説家として書いた本だ。これは地下鉄など公共の場所で読むのは考えた方がいい。何度も吹き出してしまった。夜の学校に忍び込んでバリケード封鎖をやるついでに侵入した校長室での事件の話とか、初恋の同期生にドキドキする場面とか何度も途中で吹き出してしまうような場面が登場するが、読み終わると何とも言えないしみじみとした印象が残る。
村上龍はさらに10年近く経った1996年に「はじめての夜、二度目の夜、最後の夜」を書いている。ほろ苦さの際立つ恋愛小説で話の展開の道具として料理とワインがちりばめてある。この本を読んだのは、わたしが途上国勤務をしていた頃だ。中央アジアとバルカン半島の合計で12年余りをほとんど日本人のいない国々で過ごした。その後半の頃から、日本を懐かしむ気持ちと日本語の小説を読みたい気持ちが強くなっていった。豪華なレストランのお洒落な料理が次々と登場する。そのテーブルに座っているのは著者らしき主人公と彼の中学時代の初恋の女性だ。アオキミチコというカタカナになっているのは必ずしも現実の初恋の女性ではなく、20年以上経ってからの再会で、主人公にとってもそのテーブルに座っている女性が現実の彼女なのか、思い出の中で再構成された架空の彼女なのか曖昧なところがあるのだろう。
1980年代に読んだ村上龍作品とは大きく異なっている。何とも言えない静けさが全編を通じて漂っている。有名作家になった主人公のところに中学時代の同級生が連絡してくる。懐かしい再会だ。彼女は初恋の人だった。「はじめての夜」でのディナーの終わりに主人公はドキドキしている自分に気が付いてあわてる。その勢いで「二度目の夜」がやってくる。この初恋の女性は作家になった同級生への対抗心みたいなものに駆られて、ダイエットで8㎏も絞ったのみならず、派手めのお洒落をして、再登場する。誘惑しようという気があった訳でもないだろう。今は作家になったその男が、昔自分に夢中だったことをおぼろげに知っているはずだ。もう一度自分に振り向かせてみたいという意地もあるだろう。長い時間を経て再会した二人の物語はほろ苦い。「最後の夜」はもっと微妙だ。主人公の作家は自分の目の前にいる女性とかつての記憶の間で、ほとんど意識が錯綜し始める。一方で女性は、自分には家庭があるので関係を続ける気はないことをどうやって伝えたら良いだろうかと考えるのに忙しい。このあたりの気持ちのすれ違いが、可笑しくて、哀しい。
この主人公はアオキミチコと二度目に会う時に、高校の頃に憧れていた女性のことを思いだしている。こちらの女性は一時期は主人公と付き合っていたが、やがて年上の男と結婚してドイツに住んでいる。この女性が「69 sixty nine」に登場するレディジェーンであることは明らかだ。「はじめての夜。。。。」の解説を書いている小説家の村山由佳の指摘が鋭い。「中学時代の同級生という設定のアオキミチコと、彼の高校時代の想い人であるレディージェーン松井和子は、ぴったりと二重写しに見える。おそらく、村上氏にとって彼女たちは「永遠に女性なるもの」の代表なのだ。」 この指摘は、男たちがどうして何度も「本気の恋」ができるのかについての鋭い考察だ。
村上龍が自分の高校時代を描いた小説「69 sixty nine」は最高に面白い。1969年に17歳で高校3年生だった時の記憶を18年後の1987年に35歳の小説家として書いた本だ。これは地下鉄など公共の場所で読むのは考えた方がいい。何度も吹き出してしまった。夜の学校に忍び込んでバリケード封鎖をやるついでに侵入した校長室での事件の話とか、初恋の同期生にドキドキする場面とか何度も途中で吹き出してしまうような場面が登場するが、読み終わると何とも言えないしみじみとした印象が残る。
村上龍はさらに10年近く経った1996年に「はじめての夜、二度目の夜、最後の夜」を書いている。ほろ苦さの際立つ恋愛小説で話の展開の道具として料理とワインがちりばめてある。この本を読んだのは、わたしが途上国勤務をしていた頃だ。中央アジアとバルカン半島の合計で12年余りをほとんど日本人のいない国々で過ごした。その後半の頃から、日本を懐かしむ気持ちと日本語の小説を読みたい気持ちが強くなっていった。豪華なレストランのお洒落な料理が次々と登場する。そのテーブルに座っているのは著者らしき主人公と彼の中学時代の初恋の女性だ。アオキミチコというカタカナになっているのは必ずしも現実の初恋の女性ではなく、20年以上経ってからの再会で、主人公にとってもそのテーブルに座っている女性が現実の彼女なのか、思い出の中で再構成された架空の彼女なのか曖昧なところがあるのだろう。
1980年代に読んだ村上龍作品とは大きく異なっている。何とも言えない静けさが全編を通じて漂っている。有名作家になった主人公のところに中学時代の同級生が連絡してくる。懐かしい再会だ。彼女は初恋の人だった。「はじめての夜」でのディナーの終わりに主人公はドキドキしている自分に気が付いてあわてる。その勢いで「二度目の夜」がやってくる。この初恋の女性は作家になった同級生への対抗心みたいなものに駆られて、ダイエットで8㎏も絞ったのみならず、派手めのお洒落をして、再登場する。誘惑しようという気があった訳でもないだろう。今は作家になったその男が、昔自分に夢中だったことをおぼろげに知っているはずだ。もう一度自分に振り向かせてみたいという意地もあるだろう。長い時間を経て再会した二人の物語はほろ苦い。「最後の夜」はもっと微妙だ。主人公の作家は自分の目の前にいる女性とかつての記憶の間で、ほとんど意識が錯綜し始める。一方で女性は、自分には家庭があるので関係を続ける気はないことをどうやって伝えたら良いだろうかと考えるのに忙しい。このあたりの気持ちのすれ違いが、可笑しくて、哀しい。
この主人公はアオキミチコと二度目に会う時に、高校の頃に憧れていた女性のことを思いだしている。こちらの女性は一時期は主人公と付き合っていたが、やがて年上の男と結婚してドイツに住んでいる。この女性が「69 sixty nine」に登場するレディジェーンであることは明らかだ。「はじめての夜。。。。」の解説を書いている小説家の村山由佳の指摘が鋭い。「中学時代の同級生という設定のアオキミチコと、彼の高校時代の想い人であるレディージェーン松井和子は、ぴったりと二重写しに見える。おそらく、村上氏にとって彼女たちは「永遠に女性なるもの」の代表なのだ。」 この指摘は、男たちがどうして何度も「本気の恋」ができるのかについての鋭い考察だ。
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