吉井勇という明治生まれの浪漫派の歌人がいる。秋の歌も酒の歌も良い。この歌人が仁丹の看板のある風景を歌っていることを鎌倉の父が教えてくれた。諳んじていたくらいだから、よほど好きだったようだ。
「東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹の灯よさらばさらばと」
「東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹の灯よさらばさらばと」
大正の頃の浅草は東京の中心であり、仁丹塔はランドマークだったそうだ。仁丹の看板を子供の頃に見た記憶があるが、今時の日本で見かけることはなくなった。2011年の秋に台湾を訪問した時に店先で見つけて懐かしかった。祇園の情景を歌った一連の作品もある。
「かにかくに祇園は恋し寝(い)るときも枕のしたを水のながるる」
という歌が有名だが、京都でも仁丹の広告を歌った作品がある。
「仁丹の広告も見ゆ橋も見ゆああまぼろしに舞姫も見ゆ」
吉井勇は「ゴンドラの唄」の作詞者としても知られている。大正4年(1915年)に吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲したこの歌は、芸術座のイタリアを舞台にした物語で女優松井須磨子が歌って流行した唄だ。吉井勇の作詞については大きく2説があるようだ。一つは童話で有名なアンデルセン(デンマーク)が1834年に書いた「即興詩人」の森鷗外訳(明治35年出版)を読んだ吉井勇が、その本の中に出てくるヴェネチアの里謡を基に作詞したという説だ。もう一つはイタリア在住の作家塩野七生氏が1987年の「わが友マキャベリ」で指摘して以降広く知られている説で、イタリアの「バッカスの歌」をイタリア旅行をした誰かが帰国後、吉井勇に教えたのではないかというものだ。
岩波文庫の森鷗外訳「即興詩人」を読んでみるとヴェネチアに向かう舟の上で、船頭の若者の歌を聴く場面がある。「其辞にいはく、朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。」 「ゴンドラの唄」の一番はこの鷗外訳の内容と一致し、とても格調が高い。二番、三番になると、だいぶ調子が変わって率直に娘を口説く歌になる。アンデルセンは、この地元の歌について「まことに此歌は其辞卑猥にして其意放縦なり。さるを我はこれを聞きて挽歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壮の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を発せしむるに及ばざりき。」(森鷗外訳) 酒と恋と歌を愛した浪漫派の吉井勇がこの本を読んで感激したであろうことは想像に難くない。
吉井勇が京都で密会中の三島由紀夫にばったり出くわす話を、最近読んだ岩下尚史「見出された恋 「金閣寺」への船出」(文春文庫)の中で見つけた。「金閣寺」を雑誌に連載中の三島が取材も兼ねてか、恋人と境内を散策していると「漂泊の老歌人がひとり、ぶかぶかの背広の後ろに手を組んで、鷹揚な足取で散策するのが見えた」という記述が出てくる。三島の恋人だった女性が「新橋の老妓たちはあの方の名字の吉井をばらして、トロセイさんと呼んでますのよ」と三島に教える場面がある。この聞書き本を書いた岩下尚史という人はこの頃テレビで見かける。長らく新橋演舞場に勤務した人ので芸能の世界に詳しいらしい。この本は面白い。
吉井勇は詩人堀口大學にも大きな影響を与えている。関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)によれば、堀口大學は旧制長岡中学を卒業して、もともとの出生地である東京に戻った。堀口青年がある時、長岡に帰る夜汽車の中で読んだのが短歌雑誌「スバル」に掲載されていた吉井勇の短歌百首だったそうだ。これを読んで感激した堀口青年は与謝野寛・晶子夫妻の率いる明星派の短歌グループだった新詩社に入門する。
堀口大學はやがて短歌から詩に転じていくが、その浪漫主義的な傾向は吉井勇、与謝野晶子から影響を受けたものであることがこの聞書きに書かれている。吉井勇は自分を慕う堀口青年を神楽坂辺りまで飲みに連れて行ったことも書いてある。堀口大學は旧制長岡中学出身で、わたしにとっても大先輩にあたる。「仁丹の灯」の歌を読んで以来、憧れてきた歌人吉井勇とわたしの幽かながらの接点を見出したようでうれしくなった。
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