半年に一度くらいFBで「好きな映画リスト」の更新を試みている。名画はたくさんあるので、たまたま観る機会があったものと何らかの形で自分に影響を与えたものに限定してのリストにすぎないが、そのリストに入った映画について他の人の思い入れを教えてもらうのが楽しい。またリストに入っていない映画を推薦してもらうのも楽しい。去年の夏に帰省した時に映画好きのIさんから大林宣彦監督の「廃市」(1983年)を薦められ、VHS版を貸してもらったのでようやく観ることができた。
「廃市」の感想をFBで交換していたら、読書好きのSさんから「原作本を貸すので、読んだらどうか」と勧められた。日本に帰省していた一月の雨の降る日だったが、Sさんの仕事の昼休みに会いに行った。五反田駅近くの洋食屋で特製ハヤシライスを食べながらの初対面だった。繊細なソースと豪快な玉ねぎの組み合わせが記憶に残った。本を貸していただいたので、お返しに五藤利弘監督の映画「ゆめのかよいじ」と「マリーナのジャムは何故色っぽいのか?」について盛り上がったロシア映画「持参金のない娘」をお貸しした。
この映画は不思議な雰囲気に満ちている。魔法の国へでも流れ着くかのように舟で入って、最後に舟で出て行く設定も、地元の人々が歌舞伎を演じる船舞台の場面もとても印象的だが、登場人物たちの行動が謎めいていて、理解しがたいところがある。ヒロインを演じた小林聡美とその姉を演じた根岸季衣は好演しているが、この謎めいた雰囲気の作品で個性が生きているかというと疑問が残る。映画の中で、ヒロインにあたる妹は山下規介演じる語り手役の若者に「姉は美人だけど、わたしはおへちゃだから」と言っている。若い健康美と少し年上の幽玄な美しさの対比が監督の狙いと思われるが、この物語全体が滅びていくものの美しさなのでその設定は少し苦しい。原作本では気品のある旧家の美人姉妹と並んで、「かぼそい、しをらしい、もっとなよなよした美しさ」を持つ秀という女性が加わっての三つ巴で、滅び行く幻の街に咲く花々のイメージがある。映画では峰岸徹演じる姉の夫の心中相手となる秀の凄みのある美しさが際立っている。
福永武彦の「廃市」は6つの作品を収めた短編集として、昭和35年に刊行されている。お借りした昭和44年の第七刷の後ろには、三島由紀夫「春の雪」、高橋和己「我が心は石にあらず」、大江健三郎「われらの狂気を生き延びる道を教えよ」などが並んでいて、懐かしい。冒頭の「廃市」の裏表紙に「。。。さながら水に浮いた灰色の棺である。北原白秋「おもひで」」と引用されている。
岩波文庫版の北原白秋詩集の上巻に詩集「思ひ出」からの「わが生ひたち(抄)」が入っているので、読んでみた。「わたしの郷里柳河は水郷である。さうして静かな廃市の一つである。」 その情景として旅びとや、廃れはてた遊女屋や、洗濯女や、三味線の音や、湯上りの素肌しなやかな肺病娘が登場している。そのようにして「変化多き少年の秘密」を持った詩人の魂を育んだ街こそが、水郷柳河であり、「水に浮いた灰色の棺」なのである。福永武彦の小説は北原白秋がみずからの故郷に対して抱いたイメージを見事に再現している。
大林宣彦監督の映画が製作された時点では故郷を舞台にした映画ができると歓迎した人々が「廃市」という題名に難色を示したそうだ。自分たちの住んでいる街が廃れていくというのでは縁起でもない。しかし、これは大林監督の言葉でも、福永武彦の言葉でもなく、柳河が生んだ巨人北原白秋に由来するものなので、失われた古き良き時代をしのぶよすがとして誇りにすべきものだろう。
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