2025年8月12日火曜日

キプリング(Rudyard Kipling) 「キム」(光文社古典新訳文庫)

中央アジア史の研究者である金子民雄氏が書いた「西域 探検の世紀」(岩波新書)という本がある。「ラホール博物館 ー キプリングの「キム」」という題名のついた序章だけでなく、この本のあちらこちらで「キム」についての言及がある。検索すると光文社古典新訳文庫に入っていた。この文庫本の帯の惹句がすごい。「広大無辺な英領インドを舞台としたキプリングの最高傑作」。英国の小説家キプリングが書いた「キム」の物語はラホールから始まる。第二次世界大戦後にパキスタンとインドは分離独立を果たしたので、ラホールはパキスタンに属しパンジャブ州の州都である。

上記の「西域 探検の世紀」の中で植民地時代の列強による探検競争に日本も参加していた例として数次にわたった大谷探検隊の活動が紹介されている。ここで金子氏の分析が面白い。第2次大谷探検隊を率いた橘瑞兆が英国当局からスパイ活動を疑われたのではないかという点について「年格好や雰囲気からすると、キプリングのキムと印象は重なる」として、「この連想に気がつかなかったのは日本人だけだったろう」という解説がある。そのくらいキプリングの小説が、インド探検を目指す関係者の間で広く読まれていたことが前提となっている。

キプリングは明治維新の少し前に英領インドのボンベイで、英国人の両親から生まれ、幼児期と少年期を英国で過ごした。文庫版で570頁を超えるこの本を読み通すのには時間がかかった。文庫の帯によれば冒険譚らしいのだけれど、今一つ何が何やらあいまいだ。英国人ではあるけれどインド生まれである自分自身の経験を散りばめている。冒険話と巡礼的な話とやや欲張り過ぎだ。それでもこの本には不思議な魅力がある。冒頭に引用されている自作の詩のなかで鎌倉の大仏が登場する。

訳者の木村正則氏の解説によればこの本は英国の作家たちに大きな影響を与えたそうだ。中央アジアを舞台にピーター・ホップカークが書いた「The Great Game」は著名な本だ。このタイトルは様々な場面で引用されている。ホップカークも若い頃に「キム」を読んで強く影響を受けたという解説がある。現在のパキスタンパンジャブの州都ラホールに行ってみたくなった。

2025年6月26日木曜日

藤原新也「メメント・ヴィータ」

2022年に世田谷美術館で藤原新也氏の回顧展を拝見し、ご本人から写真集にサインしてもらう機会があった。この人の新刊「メメント ヴィータ」(2025年5月、双葉社)という本が面白い。世田谷美術館で展示された作品群について自作解説的な文章があって、展示に魅了された人たちにとっては必読だろう。旅をして考えたことを文章にした人としては開高健、沢木耕太郎(最近では高野秀行)の各氏を読んできたけれど、時代的にはこの人はその中間に位置する。

この新刊の新聞広告には<「メメント・モリ(死を想え)」から40年 藤原新也が放つ書下ろし最新作! 現代の日本と世界を語る令和版「東京漂流」が誕生!>とある。私が「メメント・モリ」を読んだのは世田谷美術館の回顧展の後だ。2018年の暮れに<1983年の刊行以来、30年以上にわたり多くの読者に読み継がれてきた超ロングセラー、装い新たに復刊>され、2022年に回顧展の時期に合わせて第二刷が発行された。こちらは写真が多い本で、それぞれの写真に絶妙な一文がついている。「メメント・ヴィータ(生を想え)の方は文章が主体だが、そのインパクトの強さは40年前の名著から変わっていない。

本の中身は読んでもらうしかないけれど、次のようなエピソードが満載だ。この人が若い人たちに話をする機会があった時に「いまどきは世界中から外国人が日本を訪れている。異国の人びととの触れ合いのためにわざわざ旅をする必要はないのでは?」という質問を受けたそうだ。この点について藤原さんの答えが明快だ。「異国を旅して直面するのは自分とその土地の人々の間に垣根があること。そこには差別があり区別がある。差別される中で自分のことを知るようになる」。

自分についてふり返ると旅というよりも定住がほとんどなので旅について書いている人たちのような極限状態の経験は限られている。それでも「差別と区別」というテーマはつきまとう。大事にされたり、親切にされたことも多いからプラスマイナス両面で考えるべきだけれど、そこから自分について考えることになるのは変わらない。

2023年6月28日水曜日

Haruki Murakami をめぐる冒険 (「英国春秋」2023年春号)

               ―「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある」―

(村上春樹著「海辺のカフカ」第37章より) 

2017年の「騎士団長殺し」以来6年ぶりになる村上春樹氏の新作長編が4月に刊行予定と新聞紙上で報じられた。久々の長編作品ともなれば話題になるのは当然だが、その題名として予告されている「街とその不確かな壁」が小説家デビューからまだ新しい時期に書かれた作品の題名と似ていることが、村上ファンとしてはとても気になるところだ。「風の歌を聴け」が発表された1979年にわたしは学校を終えて社会人になった。それから読み続けて40年ほどの付き合いになる。わたしなりに好きな作品を3つ選ぶとしたら「風の歌を聴け」、「羊をめぐる冒険」、「国境の南、太陽の西」である。この小説家との関わりについて、ロンドンに住んでいた頃の思い出をたどりながらふり返ってみたいと思う。

1987年の「ノルウェイの森」で、村上春樹の小説は社会現象となった。この作品に対しては相反する感情を抱いた記憶がある。扱われている材料はデビュー以来の短編とかぶるものもあって懐かしい感じがするのだが、物語のインパクトがとても強くなっている。わたし自身が若かった頃のあまり楽しくない記憶に無理に向き合わされるような感じがした。他人事ではないように感じて読んでしまう人たちがたくさんいたからベストセラーになったのだろうと思う。読まずにはいられないが、好きな本だと公言するのをためらってしまう点が、太宰治の小説群に対する気持ちに似ている。それまでひっそりと村上春樹の読者であることを得意に思っていた立場からは、この小説家が急に売れっ子作家になってしまったことも少し残念な気がした。次第にこの小説家から少し距離を置くようになった。それから長い時間が過ぎた。50歳を過ぎた頃から、この人の作品群にもう一度興味を持つようになった。仕事で住んだ国々の書店で翻訳された村上作品に出合ったからである。ロンドンでも、サンクトペテルブルクでも、スコピエでも、ビシュケクでもHaruki Murakamiの本は大きな書店の日本の小説コーナーに積まれていた。「Murakamiが好きだ」という知り合いも多かった。「海外で紹介される日本の小説家」として根強い人気があるのは何故だろうと考えるようになった。

「羊をめぐる冒険」などいくつかの長編を例にとれば、村上作品には繰り返されるパターンがある。自分の世界やマイペースで生きることにこだわる主人公がいる。主人公はたいてい地味で目立たないキャラクター設定になっているが、何かしらの強いこだわりを持っている。他者と関わりながら「こちらの世界」で生きていくことに、うまくなじめない主人公は、やがて「ここではない世界」の存在を感じ始める。それがSF的な現実である必要はないだろう。そういう願望や想像力を持っているというだけの話かも知れない。戸惑う主人公の周りで、あちらとこちらの2つの世界で物事はパラレルに進行する。別の世界への「入り口」として古井戸や、深い森や、高速道路の非常階段やらが頻繁に登場する。主人公は「自分は誰なのか?」、「自分はどちらの世界に属しているのか?」などの謎解きを求めて物を探したり、人を探したりする。幽かな世界に浮遊しているものたちをこちら側の世界に誘い出すような形で物語は進行していく。探し求めた人との再会と別離を経て、主人公は自分の属すべき世界を選ぶことにより物語が完結することになる。

村上ワールドを構成する2つの世界は安部公房の小説「砂の女」を連想させる。この小説も海外の書店で見かけることが多かった。突然砂の穴に落ちた主人公はひたすら脱出しようともがく。穴の中で囚人のように砂を掻き出す自分が落ち込んだ非日常の世界と、ついこの間まで自分が所属していた日常の世界についての記憶がパラレルに進行する。映画の「砂の女」でヒロインを演じた若い日の岸田今日子がとても魅力的だった。岡田英次が演じた主人公はたまたま砂丘の穴に落ち込んだことで、それまで気がつかなかった形の自由を手にする。管理社会の中で何かしらの息苦しさは感じながらも、多くの人はそれを選択した主体は自分だと思いながら生きている。安全で快適な暮らしと束縛される息苦しさとを秤にかけて、その加減を選ぶのは自分だからである。このバランスを問い直し、自らの選択によって生きている実感を確かめようとすることは、国境を越えて理解されやすいテーマなのだと思う。

2015年に蜷川幸雄演出による「ハムレット」と「海辺のカフカ」がロンドンのバービカン劇場で上演された。宮沢りえが演じる「海辺のカフカ」のヒロインを観たいと思ったが、チケットは売り切れだった。藤原竜也が主役を演じた「ハムレット」のマチネのチケットが取れた。「蜷川版ハムレット」はその17年前の1998年にも真田広之と松たか子が演じた舞台をロンドンで観ている。この時の母親役が加賀まりこだった。その役を鳳蘭が演じた。1998年当時、ロンドンに在住だった野田秀樹が前の列に座っていたことを記憶している。白石加代子との共演で藤原竜也が1997年に演じた「身毒丸」を観ている。いずれも1999年から途上国暮らしを始めるまでロンドンに住んでいた頃の思い出である。上演当日になって諦めていた「海辺のカフカ」のチケットが入手できた。劇場に早めについてカフェで軽く食べて、外の空気を吸っていると遠くの方で藤原竜也が煙草を吸っているのが見えた。

蜷川版の「海辺のカフカ」には感動した。舞台装置がすごい。高松の図書館がメインの場所ということもあってか、全体を通じてガラスの書棚のようなミニ・ステージが用意され、役者たちはその中から飛び出して、演技する。いくつもあるミニ・ステージの下に車輪がついていて、人力で動かす仕掛けになっていた。図書館というよりは博物館のガラスの箱だ。臨時の大英博物館の世界を作り出したような印象を受けた。物語の中で高松に向かうトラックすらこのガラスの箱に入っているのでびっくりした。さらに凄いのはヒロインの若い日と現在の佐伯さんを演じた宮沢りえがやはりガラスの箱につめられて、冒頭から舞台上の空間を彷徨うことだ。これは白日夢の世界だった。私の席は左端で舞台からすぐの4列目だった。ガラスの箱の中から一点を凝視する宮沢りえと目が合うような錯覚を覚えた。

原作である小説「海辺のカフカ」はとても長い作品だ。作中人物の台詞の形をとりながら源氏物語やら、雨月物語やらについての論考が混じるややこしい小説である。この作品の中に「夢」と「想像力」についての様々な解釈が登場してくる。この小説には佐伯さんという中年の女性とナカタさんという初老の男性が登場する。どちらも謎めいた人物設定である。この2人の「奇妙であいまいな人たち」が幼い頃に母親と生き別れになって育った主人公のカフカ少年と関わりを持つことになる。佐伯さんが主人公の母親なのかどうかの謎解きが物語の鍵でもある。ヒロインが中年の佐伯さんでもあり、15歳の少女でもあり、主人公の母かも知れないこの物語は複雑な仕掛けでできている。

内田樹氏の「もういちど村上春樹にご用心」(文春文庫)は村上ファンに強くお勧めしたい本である。この本の中の「境界線と死者たちと狐のこと」という文章には説得力がある。同氏は「村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。。。。それが村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。」として、村上春樹を「雨月物語」の上田秋成の後継者として論じている。「海辺のカフカ」の中でも「雨月物語」の「菊花の約」が引用されている。佐伯さんが学生運動に巻き込まれて死んだ恋人を想い続ける姿は「浅茅が宿」を連想させる。内田氏によれば「行き場を失った夢は境界を超えて現実に侵入してくる」のである。その「夢」に登場する人物たちが「霊的に存在するもの」なのか、「幻想にすぎないもの」なのかは、どちらであろうと夢に影響を受けている者にとっては大きな違いはない。

ナカタさんという猫語を理解する登場人物も不思議な人である。幼い頃に森の奥でUFOのような存在に出会い、その時のショックでとっくに死んでいてもよさそうなナカタさんは、たまたま二つの世界を隔てる通路から迷い出て、こちらの世界で生きている。殺されかけた知合いの猫たちを守ることと、主人公の少年が無意識に父親に抱いたのかも知れない殺意をあたかも吸収するかのようにして、少年の父親を殺してしまう。もう一つナカタさんが果たす役割は、主人公の少年に別の世界への通路を示すことだ。ナカタさんがいろいろ不思議な力を持っていることも、この人がこちら側の世界に迷いこんできた「不完全な死者」であり、霊的な存在であると考えてみれば納得できる。

この小説の中に「源氏物語」の六条御息所の話が引用されている。これは人間の想念が生霊となって人を取り殺す話である。六条御息所のエネルギーが夢魔となって本人が意識しないまま行動してしまうが、我に返った本人にはその行動の自覚がなく、それを知った後ではその怖しい行動に愕然とする。「海辺のカフカ」の中では、母を失った原因として漠然と父を憎んでいた少年の想いが、どこかでナカタさんに伝わり、ナカタさんが殺人の実行犯になる。少年はその犯罪の計画にも実行にも関わってはいない。人間でないものたちと会話することも、遠く離れた少年の想念をわがものとすることも「人間ではないナカタさん」なら可能だ。

「こちらの世界」と「あちらの世界」で引き裂かれそうになり、自分を喪失しかねない不安定な主人公を描く村上春樹の物語には、主人公をこの世界に引き留めようとする者たちが必ず登場する。村上作品の読者にとっては「海辺のカフカ」のさくらさんはなじみのあるキャラクターだ。途方にくれた少年をさくらさんが「好きだからに決まってるでしょ」と迎える場面は「ノルウェイの森」で「不完全な死者」たちとの交流で消耗しきった主人公を優しく迎えた緑さんの言葉と同じものだ。「ノルウェイの森」のヒロイン直子も「不完全な死者」そのものなので、この本の佐伯さんのイメージに重なるところがある。佐伯さんの友人である大島さんは直子の友人であるレイコさんのイメージに良く似ている。2002年の「海辺のカフカ」は1987年の「ノルウェイの森」の変奏バージョンとも言えなくもない。

「海辺のカフカ」はギリシャ悲劇「オイディプス王」の物語を下敷きにはしているが、それが夢についての物語であることを強調することで、「父を殺して、その妃を妻にする」という悲劇の核心については、「そうかも知れないが、そうでないかも知れない」 不可知の物語としている。口惜しいとは思ったにしても殺したいとまでは意識しないまま生霊となった六条の御息所の罪は問われるべきなのか? 夢とも現実ともつかない空間でナカタという「不完全な死者」が父親を殺す。その不思議な現象を引き起こしたのがカフカ少年の混沌とした憎悪だったとしたら、その罪は問われるべきなのか?バービカンの客席は日本人よりも現地の人でいっぱいで、上演が終わった時も満場の拍手だった。

「海辺のカフカ」の主人公であるカフカという少年の名前が興味深い。カフカというのはチェコ語でカラスのことを意味する。小説の中では「不条理の波打ちぎわをさまよっている一人ぼっちの魂。たぶんそれがカフカという言葉の意味するものだ」という種明かしがなされている。「カラスと呼ばれる少年」が物語の中に幾度か登場して、主人公に語りかける影のように存在している。人間がカラスに変身する物語として太宰治の「お伽草紙」(新潮文庫)の中に「竹青」という作品があることを思い出した。中国の古典「聊斎志異」の中の原作を材料にして太宰が翻案している。神の使いである竹青が現れて、主人公を神に仕えるカラスに変身させる物語である。チェコの作家フランツ・カフカを意識して題名がつけられたであろう「海辺のカフカ」の世界が、どこかで中国の古典の世界観ともつながっているような気がして面白い。

浮遊する霊的な存在を描き、鎮魂の物語を書いたのは村上春樹だけではない。日本に住みついて小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンも同じように霊魂にこだわった作品を書いている。この人がアメリカで新聞記者をしていた時代に日本の文化と出会ったことについてはNHKでドラマ化された物語が印象的である。ハーン先生はニューオリンズでの博覧会のために訪米していた日本の外交官たちから古事記のイザナギ・イザナミの物語を教えてもらい感動する。自分の出自であるギリシャの神話であるオルフェウスの物語との共通点を見出したことが日本に対する興味の原点となる。大切なものを喪失し、嘆き悲しんだ後で時間や世界を超えて再会する物語は世界の各地に存在しているようだ。突然異界に去る形で失われた肉親や友人や恋人と再会し、きちんとした服喪の儀礼をして死者の国に送り直す。それは世界中のどこでも共感されやすい主題なのだろう。

2021年の夏に公開された濱口竜介監督による映画「ドライブ・マイ・カー(Drive My Car)」は村上春樹の原作を映画化したものである。この映画はカンヌ国際映画祭で脚本賞、アカデミー賞では国際長編映画賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受けた。「きちんとした服喪の儀礼をして」死者をその属すべき国に送り直す物語が、この映画でとても丁寧に描かれている。濱口監督の手でムラカミワールドがほぼ完全に映像化されていて感銘を受けた。





2018年1月15日月曜日

渋澤龍彦「毒薬の手帳」

今週のニュースでマンドラゴラの花の開花について報道されていた。まず金沢の読書家の友人から流れてきた。その翌日にTVで丁寧な解説番組の放映を観た。昨年12月に渋澤氏の「ドラコニアの地平」という没後30周年の回顧展が開催されたばかり。展覧会のカタログ巻末に登場するのは星月写真企画。現在お世話になっている鎌倉風景写真講座の社名だ。マンドラゴラは薬草でもあり、毒草でもある。それ自体ではどちらとも言えず、他者との関係で毒になったり、薬になったりするのは人間の関係に似ている。

昔の本棚にあった渋澤龍彦集成からの2巻は平均で3年に一度は引っ越した生活の中でとっくに処分してしまった。近所の書店で確認してみると河出文庫に山のように渋澤本が並んでいる。文庫本には「没後30周年フェア 奇才はよみがえる」とある。「毒薬の手帳」を手にとってみると第3章が「マンドラゴラの幻想」。ぱらぱらと第9章にあたる「毒草園から近代科学へ」を開いていると、露のソログープが米のホーソーンの「ラパチーニの娘」の変奏物語を書いていたことが書いてあった。


1986年の夏の研修中に「若いグッドマン・ブラウン」を読んだことが気になっていて、20年以上経ってからホーソーン短編集を読んだのがわたしの「ラパチーニの娘」との出会いだ。学生時代に高橋たか子氏を愛読していたので、この人のエッセイ集に出て来る澁澤本にも興味を持っていた。そういう風に積んでおいた記憶の中の本がいろいろつながった。

2018年1月12日金曜日

向田邦子「手袋をさがす」

年の瀬の夕方に真名瀬まで出かけた。葉山の漁港だが鎌倉からは車ですぐなので時折り出かけている。12月から2月頃までお天気が良くて風が収まった日には空気が澄んでいる。稲村ケ崎と並ぶ富士山撮りの名所だ。浜辺で撮影しているのは1時間足らずだが、防寒用の衣類を着こみ、ほかほかカイロを懐中に入れても芯まで冷えてくる。この時期の日の入りは4時半過ぎで、車で家路に向かうのは6時少し前だが真っ暗だ。凍えている手でハンドルを握りながらFMラジオを聴いていた。静かな声で「手袋をさがす」という随筆の朗読だった。オリジナルの文章を探してみると講談社文庫の向田邦子「夜中の薔薇」というエッセイ集の中に収録されている。1981年に51歳で飛行機事故で亡くなられた向田さんが、ご逝去の年の5年前に書いた文章だ。アマゾンで取り寄せて読んでみた。

学校を卒業したばかりの向田さんは初めての職場で「ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない」と感じて腹を立てていた。物の乏しい時代の冬は厳しかったそうだが、向田さんは、どんなに寒い日が続いても、気に入るのが見つからずに手袋無しですましていた。ある日残業をしていると、目をかけてくれた上司が「ひょっとしたら手袋だけの問題ではないのかも知れないねえ」とやんわり意見してくれた。そんなことをしていたら風邪をひいてしまうよという指摘は、そんな生き方をしていたら後悔するよという趣旨のお説教だったらしい。ここまでは職場のお節介オジサンが登場する普通の話だが、向田さんはその帰路に四谷から渋谷まで、寒空の下を歩き通して結論を出してしまう。翌日から求人欄の仕事探しを始め、その後仕事を転々としながら文筆で生計を立てるにいたる。

同じような気持ちで転職をし、それを繰り返した人がすべて成功したはずもない。若い頃を振り返った結果ありきのエピソードと割り引く必要もありそうだが、たまたま凍えた夜にFM放送で流れてきた物語だったのでしみじみと感じ入った。凍てつく寒さと題名から愛知県半田市出身の新見南吉が書いた「手袋を買いに」という童話を連想した。

「母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちてるのねえ」とききました。
「あれはお星さまじゃないのよ」と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。「あれは町の灯なんだよ」

雪が降った山で、寒さに凍える子ぎつねの手を温めたいと願うことは親子に共通だ。母ぎつねにとって人間の住む町は怖ろしいところで、子ぎつねにとってはキラキラした星々が低く輝いている場所だ。町に降りたきつねは殺されてしまうこともあるだろうし、物語の世界で人の心に生き続けることもあるかも知れない。人生いろいろだ。何が正解で、何が失敗かなんて誰にも分らないことが多い。向田さんのドラマシリーズは大好きでDVDも持っている。もう読んだような気がしてしまい、これまで文章で読んだことがなかった。きちんと読んでみたくなった。

 

2017年9月3日日曜日

鷗外訳アンデルセン「即興詩人」と吉井勇「ゴンドラの唄」について

黒澤明監督の映画「生きる」(1952年)で、志村喬演じる死期の迫った主人公がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌う場面はよく知られている。黒澤監督とビートルズを敬愛する五藤利弘監督の映画「愛こそはすべて」(2013年)の中にもブランコの場面が出て来る。「ゆめのかよいじ」(2012年)を筆頭に故郷である栃尾(長岡市)を舞台にした抒情的な作品が多い五藤監督にしては珍しく、色っぽい場面が多い作品だ。

「ゴンドラの唄」は大正4年(1915年)に浪漫派の歌人吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲している。大正4年(1915年)に吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲したこの歌は、芸術座のイタリアを舞台にした物語で女優松井須磨子が歌って流行したそうだ。吉井勇の歌詞についてはこれまで大きく2説がある。一つは童話で有名なアンデルセン(デンマーク)が1834年に書いた出世作「即興詩人」の森鷗外訳(明治35年出版)を読んだ吉井勇が、その本の中に出てくるヴェネチアの里謡からインスピレーションを受けて作詞したという説だ。

もう一つはイタリア在住の作家塩野七生氏が1987年の「わが友マキアヴェッリ」で指摘して以降広く知られている説で、イタリアの「バッカスの歌」をイタリア旅行をした上田敏か誰かが日本に持ち帰り、それが吉井勇に伝わったのではないかという推理だ。塩野氏は「バッカスの歌」の最初の部分が、「ゴンドラの唄」の1番にそっくりであることに注目している。ところが2番以降の歌詞が「バッカスの歌」とかなり違うので疑問が残る。新潮文庫の塩野七生著「わが友マキアヴェッリ」で確認してみると、第四章「花の都フィレンツェ」に吉井勇の「ゴンドラの唄」についての記述がある。ここで塩野氏はロレンツォ・ド・メディチの書いた「バッカスの歌」という詩を紹介している。

     「青春とは、なんと美しいものか
    とはいえ、みるまに過ぎ去ってしまう
    愉しみたい者は、さあ、すぐに
    たしかな明日は、ないのだから」

塩野氏はこの詩を紹介した後で、「以前からいだいていた想像を披露してみる気になった」そうで、その推理の根拠としてロレンツォの詩が、「フィレンツェにとどまらずにヴぇネツィアでも大流行し、謝肉祭中は欠かせない歌になっていたという事実」を指摘している。そしてロレンツォの詩と吉井勇の「ゴンドラの唄」の一番を比較する。

         「 いのち短し 恋せよ乙女
    紅きくちびる あせぬまに
    熱き血潮の 冷めぬまに
    明日の月日はないものを」

 塩野氏が「大意ならば、同じではないか」と指摘しているように、「バッカスの歌」と「ゴンドラの唄」の細部は明らかに異なっている点が気になる。塩野氏は吉井勇の歌詞を誉めて「ロレンツォだって、この日本語訳を知れば、感心するのではないかと思う。」として、二つの歌の違いは吉井勇の意訳の結果だと説明する。また「吉井勇の完全な創作かもしれない」とも付け加えている。


岩波文庫のアンデルセン原作、森鷗外訳「即興詩人」を読んでみるとヴェネチアに向かう舟の上で、船頭の若者の歌を聴く場面がある。この章のタイトルが「妄想」であるのが面白い。「其辞にいはく、朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす」。「ゴンドラの唄」の1番はこの鷗外訳の内容と一致し、とても格調が高い。

鷗外の名訳でこの歌はさらに続く。2番の歌詞は「いざ手をとりて彼の舟に」と娘を舟に誘い、3番の歌詞は「ここには人目も無いものを」と娘を誘惑する。アンデルセンは、この地元の歌について「まことに此歌は其辞卑猥にして其意放縦なり。さるを我はこれを聞きて挽歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壮の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を発せしむるに及ばざりき」と書いている。無常観に満ちた名訳だ。酒と恋と歌を愛した浪漫派の吉井勇がこの本を読んで感激したであろうことは想像に難くない。

 塩野氏がもしも森鷗外訳のアンデルセン「即興詩人」を読んでいたならば「吉井勇の完全な創作かもしれない」という文章はありえないだろう。鷗外訳の「即興詩人」の中の表現と吉井勇の「ゴンドラの唄」は1番から3番までを通じて、ほぼ同じ内容になっている。塩野氏は「大正時代に流行ったというこの歌を、私がはじめて知ったのは、黒沢明監督の「生きる」を観た時だった。」 と書いている。塩野氏は映画を観て知った「ゴンドラの唄」と「バッカスの歌」の大意が似ているので、「自分はそのような想像をいだいていた」と書いているにすぎない。それが確固たる「塩野説」として広まったようだ。
 

2017年4月5日水曜日

茨木のり子の詩 「わたしが一番きれいだったとき」

茨木のり子という詩人の「わたしが一番きれいだったとき」という詩もよく知られている。自分が一番きれいで、何もかも手に入れてもおかしくなかったはずの時代は仕事に追われ、自信が無くて、悩むことばかりで、何もない時代だった。だから長生きして少しずつ自分のために生きていこうとこの人は書いた。残りの人生などではなく、これから自分の生きたいように生きるんだという気迫が伝わってくる。

後藤正治著「清冽 詩人茨木のり子の肖像」という評伝がある。その第十一章「ハングルへの旅」にこの詩人の韓国語との関わりが詳しく描かれている。「わたしが一番きれいだったとき」、「自分の感受性くらい」、「椅りかからず」などいくつかの詩も収められている。この詩人に興味のある人にとってはこの評伝はとても素敵な入門書だ。この人は50歳を過ぎてから韓国語を勉強し、その国を旅し、文献を読み、自分の世界を広げている。そんな風に生きてみたいものだ。

「わたしが一番きれいだったとき」

わたしが一番きれいだったとき
街々はがらがら崩れていって
とんでもないところから
青空なんかが見えたりした

わたしが一番きれいだったとき
まわりの人達がたくさん死んだ
工場で 海で 名もない島でわたしは
おしゃれのきっかけを落としてしまった

わたしが一番きれいだったとき
だれもやさしい贈り物を捧げてはくれなかった
男たちは挙手の礼しか知らなくて
きれいな眼差しだけを残し皆発っていった

わたしが一番きれいだったとき
わたしの頭はからっぽで
わたしの心はかたくなで
手足ばかりが栗色に光った

わたしが一番きれいだったとき
わたしの国は戦争で負けた
そんな馬鹿なことってあるものか
ブラウスの腕をまくり卑屈な町をのし歩いた

わたしが一番きれいだったとき
ラジオからはジャズが溢れた
禁煙を破ったときのようにくらくらしながら
わたしは異国の甘い音楽をむさぼった

わたしが一番きれいだったとき
わたしはとてもふしあわせ
わたしはとてもとんちんかん
わたしはめっぽうさびしかった

だから決めた できれば長生きすることに
年とってから凄く美しい絵を描いた
フランスのルオー爺さんのように
                     ね

(「茨木のり子詩集 谷川俊太郎選」 岩波文庫)



生はいとしき蜃気楼と 茨木のり子の詩 「さくら」

2014年の春に藤原正彦氏が週刊誌に連載していた「管見妄語」というコラムでこの詩を見つけてから、とても好きになった。いろいろなことがきっかけで普通は見えないものが見えたり、感じないものを感じたりする人たちはいる。そういうことが不思議な現象などではなくて自然なことなのだと感じさせてくれる。

「さくら」

ことしも生きて
さくらを見ています
ひとは生涯に
何回ぐらいさくらをみるのかしら
ものごころつくのが十歳ぐらいなら
どんなに多くても七十回ぐらい
三十回 四十回のひともざら
なんという少なさだろう
もっともっと多く見るような気がするのは
祖先の視覚も
まぎれこみ重なりあい霞だつせいでしょう
あでやかとも妖しとも不気味とも
捉えかねる花のいろ
さくらふぶきの下を ふららと歩けば
一瞬
名僧のごとくにわかるのです
死こそ常態
生はいとしき蜃気楼と

(「茨木のり子詩集 谷川俊太郎選」 岩波文庫)

2017年1月3日火曜日

光でできたパイプオルガン 宮沢賢治の詩「告別」

詩を書き、物語を書き、歌も作った宮沢賢治は「告別」という詩を書いている。夕陽の写真を撮ったりすると、雲間から光が差し込む時がある。「レンブラント光線」とも「天使の階段」とも言われるそうだ。この光が差し込む景色をみると、この詩を思い出す。「そらいっぱいの光でできたパイプオルガン」という言葉が結びの行になっている。凄い詩だと思う。

とても長い詩だが、「ひとさえひとにとどまらぬ」という一行はおぼろげな記憶があるので、教科書か何かの抜粋で、昔読んでいるはずだ。若い頃から、この詩人と名前が一字違いなので意識してきた。何度もこの人の詩集を読もうと思っては挫折しているが、2013年に「星めぐりの歌」でこの人に再会してからは好きな作品をぽつぽつと見つけて読んでいる。

この人は農学校の先生をしていた。やがて学校を辞めて、自分の世界に住むことを決意した頃に、世の中に出て行こうとする教え子に贈った言葉でもあり、学校を去るつもりの自分に贈る言葉でもあったのだと思う。世の中に出てからも一人で学び続ける孤独な道に、同じように歩む仲間がいてほしいという祈りのような気持ちが込められている気もする。「その人の仕事が気になる人」、「いろいろ大変でも良い仕事を続けてほしい人」。そういう人たちはわたしの回りにもいる。

宮沢賢治 「告別」


おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

(「新編宮沢賢治詩集」 天沢退二郎編 新潮文庫)


2016年12月31日土曜日

高井有一「立原正秋」

この秋に高井有一氏がご逝去されたことをニュースで知り、Amazonで同氏による評伝「立原正秋」を取り寄せた。Amazonは書棚の整理で不要になった本を交換するようなシステムでありがたい。この本の存在には気がついていたが、積読リストも長いのでそのままになっていた。1991年はわたしが日本を離れて海外出稼ぎ生活を始めて1年目だったので、日本の書店に立ち寄る余裕もなかった。

それでもこの本はいつも気になっていた。高井有一という小説家のことは学生時代に「夜明けの土地」を読んで知った。立原正秋との最初の出会いは子供の頃のTVでみた「冬の旅」の原作者としてだった。あおい輝彦主演で、田村正和が義理の兄を演じていた。学生時代に立原正秋を読み耽った時期があるのも、「恋人たち」というTVドラマの原作が印象的だったせいだと思う。ドラマの方は年末にご逝去された根津甚八が主演し、大竹しのぶが相手役を演じた。ドラマの評判も高かったが、原作本も渋い。高井有一が立原正秋の評伝を書いたのであれば面白そうだと思った。

この本は3つの点で面白い。まずは小説家立原正秋についての本格評伝だ。この評伝を読んで開高健について書かれた幾冊かの優れた本を思い出した。評伝には作家との親交を中心に知人が思い出を書くものと、作品を愛読する人が遺族や友人へのインタビューや未公開の資料などを中心に書くものと大きく2種類ある。高井氏の本は前者に属するもので圧倒的な臨場感が素晴らしい。谷沢永一氏や菊谷匡祐氏がそれぞれ友人だったり、先輩後輩だったりの立場から開高健について書いた濃密な文章を連想させる。

もう一つは高井有一について知りたいという興味だ。高井有一という小説家は新聞記者との2足のわらじを履いていた人で寡作の印象がある。芥川賞を受賞した「北の河」や「夜明けの土地」などでこの人に興味を持ったが、その後の作品の数が少なくて残念だった。この評伝の中に流行作家となった立原正秋が同人誌の後輩だった高井氏に作家専業になることを薦めたくだりが何度か登場する。立原先輩は高井氏を説得しようとして「一年間の資金援助」まで申し出る。高井氏はこれを断ったそうだ。両親に先立たれ戦後の生活の苦労を味わったことがトラウマだったのか?それとも立原先輩が純文学から次第に流行作家に移行したことを気にして専業作家生活を嫌ったのか?明確な理由は明らかにされていない。

この本にはもう一つ「鎌倉本」としての魅力がある。共同通信の記者だった高井氏が上京した折に腰越の立原家に泊めてもらい朝食を食べながら朝刊に載っていた柴田翔「贈る言葉」の新聞広告を目にする話、正月に梶原の立原家から風呂敷に包んだ酒の化粧樽を木刀に括り付け、大船駅の方向をめざして山道を行く話、鎌倉の山桜を愛した立原正秋の墓が瑞泉寺にある話などが登場する。第9章「或る女人の物語」が面白い。ここに登場する大町の妙本寺といえば鎌倉に住んだ小林秀雄と中原中也が春の海棠を眺めながら再会を果たした場所として知られている。このお寺で立原正秋が恋人とその子供を連れて除夜の鐘を聴いた話が印象的だ。

2016年11月25日金曜日

杉本えつ子「武士の娘」 越後長岡からニューヨークへ

NHK BSの「武士の娘」は田舎の旅館の玄関先を箒で掃き清めている小さな女の子が近所のいたずら小僧たちにからかわれて、立ち向かっていく場面から始まる。ヒロインである杉本えつ子氏がからかわれたのは2つの理由による。第1は縮れ毛のこと、第2は元越後長岡藩の筆頭家老だった父親が明治になってから腰抜け侍と揶揄されたこと。縮れ毛で男まさりではまともな嫁ぎ先は無いかもと気にしていたことが同女史の著書である「武士の娘」(ちくま文庫)の冒頭に書かれている。明治の越後長岡に生まれた女性の書いた本がニューヨークで出版され、Hemingway の「日はまた昇る」や、Fitzgerald の「グレイト・ギャツビー」と一緒にベストセラーになったことをこの番組を見るまで知らなかった。

このヒロインの兄は、親に勘当された状態で米国に飛び出しシンシナティで働いていた。兄の紹介で許嫁と結婚するために海を渡ることになるが、帰国し、ご主人とも死別し、故郷の母も亡くなった後で、再渡米したことと、それからの女史の生き方がすごい。シンシナティには戻るところもなくニューヨークにわたり、コロンビア大学で仕事を見つける。これも最初の渡米前に日本でみっちりと高等教育を受けているおかげだろうから、さすがに賊軍となった長岡藩とはいえ元ご家老の娘だ。面白そうな人なので、この番組にも登場している内田義雄という人の「えつ子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」という本をamazonで取り寄せてみた。

ヒロインの旧姓は稲垣で、父は長岡藩の筆頭家老の家柄だった。藩政改革を進めた河井継之助によってこの筆頭家老は閑職に追われる。その後河井継之助が官軍への徹底抗戦を主張したときに、勤皇と官軍への恭順を説き、戦になるとさっさと降伏した。それで地元での評判は悪かったらしい。戊辰戦争の負け戦で河井継之助を恨んだ人も多いので、歴史上の人物がどう評価されるかというのはわからない面がある。学生時代に京極純一先生の政治過程論の授業で紹介されていたルース・ベネディクトの「菊と刀」の中にも、「武士の娘」の中からのエピソードが紹介されている。そういう意味では学生時代に一度この郷里の大先輩に出会ったいたはずなのに、きちんと出会うまでにずいぶん時間がかかってしまった。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2393055/


2016年9月5日月曜日

イワン・ブーニン 「パリで」とアントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」

10歳違いのアントン・チェーホフとイワン・ブーニンがお互いを尊敬していたことが知られている。40代でチェーホフは早逝し、パリに亡命したブーニンは60代半ばでノーベル賞を受賞し、80代まで生きた。ブーニンの死後に「チェーホフのこと」という評論が刊行されている。ブーニンが70代で書いた「暗い並木道」という短編集は鬼気迫る傑作だ。ほとんどの短編に死のイメージがあるのは自らの死が迫っていることを自覚してのものだろう。鮮烈な性のイメージがちらつくのは死の訪れを意識した老人が若い日の恋を回想しているように思われる。いくつも心に残る作品がある中で「パリで」という作品は印象が強い。

この作品の主人公はブーニンと同じく革命後にパリに亡命したロシア人で、小説家自身に近いのだろうと思わせる作品だ。さらに面白いのは皮肉たっぷりの短い警句を発する主人公のイメージがチェーホフの傑作中篇である「犬を連れた奥さん」の主人公のイメージと重なる点だ。こちらは映画化されたのでDVDで観賞した。避暑地ヤルタを訪れた主人公はこれまでの自分の体験を踏まえて
「女は下等な生き物」で困った存在だと考えているらしい。それでいながら女性に魅かれ続ける本人のほうがよっぽど困った人だ。そういう主人公がヤルタで出会った若いヒロインに恋をしてしまう。

「パリで」の冒頭でこちらの主人公も「美味しいメロンとまっとうな女を見分けるほど難しいことはない」という考え方の持ち主だ。妻に逃げられたことが今でも傷になっているという設定のこの主人公は女性に偏見を持っている。たまたま入ったパリのレストランでウェートレスをしているやはり亡命ロシア人のヒロインに出会う。このヒロインが親切に水差しをテーブルに置くと 「荷車が道をいため、女性が男心を傷つけるように、水は酒を台無しにする」 という警句でヒロインを呆れさせる。それでもこのヒロイン目当てにこの店に通ってくる主人公は「犬をつれた奥さん」の主人公によく似ている。

ブーニンもチェーホフも中央アジアのロシア語圏で勤務していた頃に熱読した作家だったが、2011年にこの地域を離れてから自然と距離ができていた。昨日突然「パリで」の記憶がよみがえってきたのは、帰省から戻る新幹線の待ち時間に長岡で日本酒の店に立ち寄ったのきっかけだった。米どころの地酒が自慢のこの店は、極上の酒を味わう合間にチェイサーとして水を飲むことを勧めている。あちらの世界でブーニンが知ったらびっくりしそうだ。

2016年8月25日木曜日

角田光代「さがしもの」

新潮文庫に入っているこの本には9本の短編が収められている。冒頭の「旅する本」という物語がとても面白い。東京で一人暮らしをすることになって部屋も狭いし、飲み代にも困って他のものと一緒に一冊の文庫本を古本屋に売り払う。学生時代が終わるにあたって卒業旅行で出かけたネパールのポカラの安宿の近くの古本屋でその本に再会する。風変りな本でそういう本を読む人はネパールや60年代ヒッピー風の生活に憧れる傾向があると考えれば無理な話とも言い切れない。この人は雨に降られて宿にとどまっている暇つぶしもあってその文庫本を再読する。荷物を減らすためにその本をカトマンズで売り払う。

社会人になった主人公が仕事でアイルランドを旅している時にふらりと入った古本屋でその本にめぐり合う。現実味がないなあと主人公自身が述懐しながらこの人はその本を買い求め、パブでギネスを飲みながら飛ばし読みする。帰国途中のロンドンでその本を売ってしまおうと考える。それはこの次どこで出会うことになるのか興味があるからというのがこの不思議な短編の結末である。

この本の味わいはそれが現実がどうかにあるのではない。童話だと思えばすむことだし、あるいはそういう節目節目でその本の内容を思い出したことを書いたと思えばありそうな話だ。

余談がある。去年の春、まだロンドンに住んでいた時に旅行中のOさんご夫妻が訪れてくれた。長いことご無沙汰だったキューガーデンズにご一緒したり、野生の鹿のいるリッチモンド公園にワンコも連れて行って散歩したりで楽しかった。お土産にいただいた日本酒を飲みながら、夜更けまで好きな本の話をしたときに登場したのが角田光代さんだった。都の西北にある大学の学生時代に学年が近かったのでご縁があるらしい。映画化された「紙の月」は宮沢りえ主演の映画も凄いが、原田知世主演のドラマ版も鬼気迫る感じがした。

安野光雅「繪本 即興詩人」

この人の優しい色調の絵はこれまでも見たことがある。ある日この挿絵入りの随筆のような本が居間のテーブルに置いてあった。つれあいが買ってきたものだった。森鴎外に興味があるのだろうか?、即興詩人に興味があるのだろうか?と訊ねてみると「別に。絵が素敵だから買ってきた」とのことだった。

アンデルセン原作の「即興詩人」には一昨年から興味を持っている。黒沢明監督の「生きる」にも、五藤利弘監督の「想い出はモノクローム」にも登場する「ゴンドラの唄」の由来について調べているうちに作詞した歌人吉井勇が種本としたのはこの本に違いないと思ったからだ。その辺りの詳しい経緯は別にブログで書いている。この唄の由来については塩野七生氏も推論を著書の中で書いている。イタリアの古謡に由来するという指摘はその通りなのだが、それが吉井勇に伝わったルートについて明確な説明がない。この点は森鴎外の訳した「即興詩人」を読めば答えは明らかである。本書142頁の「妄想」という章で安野氏もゴンドラの唄に言及している。

この絵本を書いた安野さんという人はこの物語が大好きらしい。先日、書店でこの人の「現代語訳 即興詩人」という本も手に取ってみた。アンデルセンからの訳ではなくて、森鴎外の文語訳を現代語訳にしたものだ。こういうとことん徹底したこだわり方はすごい。そういう点ではわたしも自分訳を試みてみたい本が一冊ある。いつかと思っているが、残された時間もゆっくりとではあるが限られてきたように感じるこの頃だ。

それはさておきこの画文集とても素敵な本だ。

 

2016年8月14日日曜日

キルギスでアーネスト・ヘミングウェイ「移動祝祭日」を読んだ

7月21日はヘミングウェイの誕生日だったので、キルギスの友人たちが草原で酒を酌み交わしてヘミングウェイを偲んだというFB投稿を読んだ。キルギスにいた頃に新潮文庫で「移動祝祭日」を読み共感したので、「武器よさらば」と「日はまた昇る」を読んだ。面白かった。わたしが50代になった頃の話だ。「移動祝祭日」はまだヘミングウェイの名声が確立する前のパリ時代を中心とした回想録だ。この本の中でヘミングウェイがフィッツジェラルドとの関わりについて書いているのが面白い。「グレート・ギャツビー」を書いたフィッツジェラルドのことは20代の頃から好きだったので、複雑な気持ちになった。ずいぶん手厳しい人物評だ。 お互いの魅力を認め合いながら、やがてすれ違う人たちの例として、四方田犬彦氏が由良君美先生に捧げるために書いた「先生とわたし」という本を思い出した。

2016年7月17日日曜日

チェーホフの作品の思い出

7月15日は1904年に44歳で亡くなったロシアの小説家・劇作家アントン・チェーホフの命日だった。百年以上経った今でも、この人の戯曲が世界各地で上演され、小説が読まれている。チェーホフはロシアの南西部でウクライナに近いタガンログに生まれたが、父さんの家業が失敗して借金に追われるようになり、この街を離れたようだ。モスクワの医学生だった時代から、家族を支えるために新聞などに原稿料目当ての短い文章を書き始める。「アントシャ・チェホンテ」のペンネームでユーモアと才気の光る短編を書きまくる。この頃の短い文章は面白さはあっても、深みのある作品とは言い難い。やがて医師となり、さまざまな人々の生活を観察し、30代になり、40代になってこの人の書いたものがどんどん深みを増していった。世界中で上演される4大戯曲も良いが、わたしが好きなのは「犬を連れた奥さん」、「イオーヌィチ」など晩年の短い小説だ。

学生時代から太宰治とか伊藤整などの本でチェーホフの名前は知っていたが、本を読んだことがなかった。仕事でビシュケクに住むようになって、この作家がロシア語圏のみならず、ロンドンの書店でも人気があることに気がついた。乗換えのためのモスクワ空港で「犬を連れた奥さん」のCD本を買ったのがきっかけで、日本から文庫本を取り寄せた。それから逐語で訳を対照しながら、原文を追った。このやり方は熟読に役立つが短い作品にしか使えない。
4章構成のこの中編はとても面白い。主人公のグーロフ君は、これまで女性遍歴も重ねてきた経験から「女性と言うものは実際の彼を理解することができずに、勝手に作り上げた自分のイメージを追いかけるだけの阿呆な連中だ」とバカにしている。海千山千のはずの彼が運命の人に巡り合う。かつての恋愛沙汰を振り返りながら自問自答を繰り返す場面での独白が鋭い。冷徹な人生観、中年男の倦怠、人生をどうしきり直すのかなどが率直に論じてあって味がある。

それから熱が入ってきて2003年と2008年の夏をサンクト・ペテルブルグで過ごした。2度目の短期滞在の時にはCDからMP3の時代に移りつつあった。この時「イオーヌィチ」を買ったのはオーディオ本のカバーがとても印象的だったからだ。医師だったチェーホフ自身を思わせる青年医師イオーヌィチが若い娘に恋をする。ノートに書かれた娘の返事は「今夜会いたい」だった。心ときめかせたイオーヌィチは指定された墓地に向かう。とても印象的な作品だ。

チェーホフは1890年、30歳の時に「サハリン島」という紀行を書いた。その後大きく作風を変えた転機と言われている。「気まぐれ女」(1892年)、「かもめ」(1895年)、「恋について」、「イオニッチ」(1898年)、「犬を連れた奥さん」(1899年)などの佳作を残している。4大戯曲と言われる「桜の園」、「かもめ」、「三姉妹」、「ワーニャ叔父さん」も面白い。この人が晩年になってたくさんの戯曲を書いたのは、小説の文名が上がってからも、出版社との前借契約に縛られてさほどの収入にならなかったので、仕方なく戯曲を書いてからだという話が面白い。この人は作家としてのキャリアの始まりが金に困っていたからで、晩年になっていくつもの名作戯曲を書いたのも同じ理由だということになる。何が幸いするかはわからない。2012年の夏にタガンログを訪れた時に撮影した写真がある。




2016年6月8日水曜日

新美南吉 「手袋を買いに」

新美南吉という人の童話を初めて読んだのは中学校の現代国語の教科書だった。「牛をつないだ椿の木」という物語が印象に残ったので童話集を読んでいる。狐の子が人間の住む世界まで手袋を買いに行く「手袋を買いに」を書いた新美さんはこの不思議な花のことを知っていたのだろうか? 狐の手袋(fox glove) は英国で庭の花として人気がある花だ。ジギタリスという指を意味する別名もある。昨年の秋まで住んでいたロンドンの近所でも散歩の公園でもあちこちで咲いていた。夏の風物詩である。この優美な花は薬草にもなるが、猛毒でもある。

この童話を絵本で読んだ人も多い。物語としては今では教科書に採用されなくなったそうだ。人里離れた森に棲む狐の親子の設定は個人と社会のほどほどの距離感を感じさせるしみじみした物語だ。渡る世間に気を付けなければならないことをやんわりと教えてくれる物語でもある。それが「子狐を危険にさらした母親はけしからん」という面だけを捉えた批判につながってしまうのは寂しい話だ。今では近所のコンビニやら郊外の大型スーパーやらで便利に買い物ができる時代だが、わたしが子供の頃には町までてくてく歩いて買い物に行ったものだ。子供たちがお使いを頼まれるというのは日常的な風景だったと思う。

http://youtu.be/OnBE6bPdgAE

 

2016年4月30日土曜日

田中冬二 「つつじの花」

今年もまたつつじの季節になった。田中冬二という詩人の「つつじの花」という作品を思い出す季節でもある。田中冬二全集全3巻は京都に遊びに行った時に河原町の古書店で買ったものだ。同じ書店で井上靖「私の西域紀行」上・下巻、長沢和俊「シルクロード文化史」I・II巻も買っている。タシケントに赴任する前の一時帰国で中央アジア本を探していた。その時たまたま田中冬二の全集を見つけた。中学校の国語の教科書で読んで以来で懐かしかった。

「若葉した山の処々に
火のように燃えているつつじの花
麦の穂も出揃った
あかるい縁側で蜂蜜の壜に
レッテルを貼っていた
紫雲英の花の蜜であった
家の中で時計が十一時を打った」

2015年の4月にロンドンで観たイザベラ植物園のつつじが記憶に残っている。ロンドン西部にある広大なリッチモンド公園の中に森がある。外からは見えないような形の小さな渓谷全体がつつじに覆われていた。その風景を見て以来、何かが変わったような気がしている。4月の末からほぼひと月ほど数日ごとにその場所でつつじの群生の変化を眺めていた。こんなに美しいもののそばにいながらそれまで見たことのなかった自分の生活が少し変だと思った。死ぬ前に見たいものはまだたくさんあるはずだという気がした。1991年の1月に日本を離れてから四半世紀に及んだ海外生活に区切りをつけるタイミングを調整していた。その年の秋に日本に戻ることにした。

年が明けて2016年の4月は西鎌倉の母を送る月となった。庭に咲いていたつつじを手向けの花としたので、来年からは母を思い出す花になる。季節の花を庭で育てて居間から眺めるのが好きだった母は、自分で育てた色とりどりのつつじに囲まれて彼岸へと旅立った。49日の法要の後で成仏となるのだそうだ。ご縁が出来てから30年は遠方で暮らすことが多かったが、本当にお世話になった。合掌。



2016年4月1日金曜日

プーシキンの詩 アンナ・ケルンに

2003年の1月に職場の関係者大勢でモスクワに集まる用事があった。出発直前にタシケントの雪中ゴルフで背筋を痛めて大騒ぎしたのでこの旅のことは覚えている。寒気の中で十分に身体をほぐすこともなくクラブを振っていた。いくつめかのホールのティーショットで強振した途端に、引っ張られた背筋が元に戻らなくなった。なんとか帰宅し、大慌てで整体の先生に施術していただいた。とりあえず痛みは治まり、ロシアへの出張になんとか間に合った。

仕事が終わって同僚たちと訪れたミュージアムの入り口で、プーシキンの歌曲のCDを売っていたので記念に買ってみた。一曲目のピアノのメロディが気に入り、何の歌なのか知りたいと思った。ロシアのロマンスの訳にしばらく熱中することになるきっかけだった。プーシキン詩集は金子幸彦訳が岩波文庫にある。詩文として訳すのか、解釈文として訳すのかいろいろやり方がありそうだ。私なりの訳も試みてみた。

Я помню чудное мгновенье      あなたが奇跡のように
Передо мной явилась ты,        私の目の前に現れたのを覚えている

Как мимолётное виденье,       一瞬の幻のようであり
Как гений чистой красоты.       美の精霊のようでもあり

В томленьях грусти безнадежной    望みもなく打ちひしがれた
В тревогах шумной суеты,        煩わしいだけの日々の中でも
Звучал мне долго голос нежный     優しい声が聞こえた
И снились милые черты.         愛らしい面影を夢に見た

Шли годы. Бурь, порыв мятежный    幾年が過ぎ 激しい嵐に
Рассеял прежние мечты,         昔の夢は消えてしまった
И я забыл твой голос нежный,      優しい声も忘れていた
Твои небесные черты.          その面影も忘れていた

В глуши, во мраке заточенья      孤独な闇の中に囚われ
Тянулись тихо дни мои         日々は静かに過ぎた
Без божества, без вдохновенья,     祈りもなく 霊感も消え
Без слез, без жизни, без любви.     涙も 命のきらめきも 愛もなく

Душе настало пробужденье:     あなた
が再び現れて
И вот опять явилась ты,         
わたしの魂は目覚めた
Как мимолетное виденье,       一瞬の幻なのか
Как гений чистой красоты.        美の精霊なのか

И сердце бьется в упоенье,       心は喜びで波打ち
И для него воскресли вновь        祈りも 霊感も
И божество, и вдохновенье,       命の煌めきも 涙も 愛も
И жизнь, и слезы, и любовь.        私の心によみがえった


2016年3月26日土曜日

歌人吉井勇 沈丁花と馬酔木

わたしの郷里である越後長岡から旧制長岡中学を終えた堀口大學先輩が上京したのは1909年のことだ。堀口先輩はこの上京の列車の中で吉井勇の歌を読んで心酔し、その秋に新詩社に参加する。浪漫派の歌人吉井勇は詩人堀口大學の誕生に影響を与えたということになる。

明治19年(1886年)に東京で生まれた歌人吉井勇は、19歳の時に肋膜を病み鎌倉で療養のために夏を過ごした。年譜によると与謝野寛に手紙を書いて新詩社に参加したのもこの頃だ。明治42年(1909年)には雑誌「スバル」が創刊され、編集に参加した。その後も鎌倉長谷に住んだりした。それで歌集をめくるとあちこちに
七里が浜や鶴岡八幡宮など鎌倉を舞台にした歌が出てくる。

代表作である「酒ほがい」という歌集の中に「その夜半の十二時に会ふことなどを誓えど君のうすなさけなる」という歌があります。中央アジアで働いていた頃に読んだチェーホフの小説を連想しました。早逝したこのロシアの作家は晩年に印象的な作品を残しています。小説「イオーヌイチ」の中で重要な役割を果たす出来事がこの吉井勇の歌そのままなのが面白い。

鎌倉の古寺をめぐりながら散歩すると沈丁花や馬酔木をよく見かける。歌集の中にも出てくる。

「沈丁花にほふ夕やしくしくと胸ぬち痛むものあるごとし」

「この夜また身に染むことを君に聴く沈丁花にも似たるたをやめ」

「うたがひもほのかに胸に来るときは沈丁花など嗅ぐここちする」

「萬葉の相聞の歌くちずさみ馬酔木の花はみるべかりけり」

「萬葉のむかしを思ふこころもて馬酔木の花の咲くころに来む」

「寂しければ垣に馬酔木を植ゑにけり捨て酒あらばここに灌がむ」