2016年12月31日土曜日

高井有一「立原正秋」

この秋に高井有一氏がご逝去されたことをニュースで知り、Amazonで同氏による評伝「立原正秋」を取り寄せた。Amazonは書棚の整理で不要になった本を交換するようなシステムでありがたい。この本の存在には気がついていたが、積読リストも長いのでそのままになっていた。1991年はわたしが日本を離れて海外出稼ぎ生活を始めて1年目だったので、日本の書店に立ち寄る余裕もなかった。

それでもこの本はいつも気になっていた。高井有一という小説家のことは学生時代に「夜明けの土地」を読んで知った。立原正秋との最初の出会いは子供の頃のTVでみた「冬の旅」の原作者としてだった。あおい輝彦主演で、田村正和が義理の兄を演じていた。学生時代に立原正秋を読み耽った時期があるのも、「恋人たち」というTVドラマの原作が印象的だったせいだと思う。ドラマの方は年末にご逝去された根津甚八が主演し、大竹しのぶが相手役を演じた。ドラマの評判も高かったが、原作本も渋い。高井有一が立原正秋の評伝を書いたのであれば面白そうだと思った。

この本は3つの点で面白い。まずは小説家立原正秋についての本格評伝だ。この評伝を読んで開高健について書かれた幾冊かの優れた本を思い出した。評伝には作家との親交を中心に知人が思い出を書くものと、作品を愛読する人が遺族や友人へのインタビューや未公開の資料などを中心に書くものと大きく2種類ある。高井氏の本は前者に属するもので圧倒的な臨場感が素晴らしい。谷沢永一氏や菊谷匡祐氏がそれぞれ友人だったり、先輩後輩だったりの立場から開高健について書いた濃密な文章を連想させる。

もう一つは高井有一について知りたいという興味だ。高井有一という小説家は新聞記者との2足のわらじを履いていた人で寡作の印象がある。芥川賞を受賞した「北の河」や「夜明けの土地」などでこの人に興味を持ったが、その後の作品の数が少なくて残念だった。この評伝の中に流行作家となった立原正秋が同人誌の後輩だった高井氏に作家専業になることを薦めたくだりが何度か登場する。立原先輩は高井氏を説得しようとして「一年間の資金援助」まで申し出る。高井氏はこれを断ったそうだ。両親に先立たれ戦後の生活の苦労を味わったことがトラウマだったのか?それとも立原先輩が純文学から次第に流行作家に移行したことを気にして専業作家生活を嫌ったのか?明確な理由は明らかにされていない。

この本にはもう一つ「鎌倉本」としての魅力がある。共同通信の記者だった高井氏が上京した折に腰越の立原家に泊めてもらい朝食を食べながら朝刊に載っていた柴田翔「贈る言葉」の新聞広告を目にする話、正月に梶原の立原家から風呂敷に包んだ酒の化粧樽を木刀に括り付け、大船駅の方向をめざして山道を行く話、鎌倉の山桜を愛した立原正秋の墓が瑞泉寺にある話などが登場する。第9章「或る女人の物語」が面白い。ここに登場する大町の妙本寺といえば鎌倉に住んだ小林秀雄と中原中也が春の海棠を眺めながら再会を果たした場所として知られている。このお寺で立原正秋が恋人とその子供を連れて除夜の鐘を聴いた話が印象的だ。

2016年11月25日金曜日

杉本えつ子「武士の娘」 越後長岡からニューヨークへ

NHK BSの「武士の娘」は田舎の旅館の玄関先を箒で掃き清めている小さな女の子が近所のいたずら小僧たちにからかわれて、立ち向かっていく場面から始まる。ヒロインである杉本えつ子氏がからかわれたのは2つの理由による。第1は縮れ毛のこと、第2は元越後長岡藩の筆頭家老だった父親が明治になってから腰抜け侍と揶揄されたこと。縮れ毛で男まさりではまともな嫁ぎ先は無いかもと気にしていたことが同女史の著書である「武士の娘」(ちくま文庫)の冒頭に書かれている。明治の越後長岡に生まれた女性の書いた本がニューヨークで出版され、Hemingway の「日はまた昇る」や、Fitzgerald の「グレイト・ギャツビー」と一緒にベストセラーになったことをこの番組を見るまで知らなかった。

このヒロインの兄は、親に勘当された状態で米国に飛び出しシンシナティで働いていた。兄の紹介で許嫁と結婚するために海を渡ることになるが、帰国し、ご主人とも死別し、故郷の母も亡くなった後で、再渡米したことと、それからの女史の生き方がすごい。シンシナティには戻るところもなくニューヨークにわたり、コロンビア大学で仕事を見つける。これも最初の渡米前に日本でみっちりと高等教育を受けているおかげだろうから、さすがに賊軍となった長岡藩とはいえ元ご家老の娘だ。面白そうな人なので、この番組にも登場している内田義雄という人の「えつ子 世界を魅了した「武士の娘」の生涯」という本をamazonで取り寄せてみた。

ヒロインの旧姓は稲垣で、父は長岡藩の筆頭家老の家柄だった。藩政改革を進めた河井継之助によってこの筆頭家老は閑職に追われる。その後河井継之助が官軍への徹底抗戦を主張したときに、勤皇と官軍への恭順を説き、戦になるとさっさと降伏した。それで地元での評判は悪かったらしい。戊辰戦争の負け戦で河井継之助を恨んだ人も多いので、歴史上の人物がどう評価されるかというのはわからない面がある。学生時代に京極純一先生の政治過程論の授業で紹介されていたルース・ベネディクトの「菊と刀」の中にも、「武士の娘」の中からのエピソードが紹介されている。そういう意味では学生時代に一度この郷里の大先輩に出会ったいたはずなのに、きちんと出会うまでにずいぶん時間がかかってしまった。

http://www.nhk.or.jp/docudocu/program/2443/2393055/


2016年10月30日日曜日

泉鏡花「星あかり」の朗読会 

街角のポスターを見て、泉鏡花作「星あかり」の朗読会に行ってきた。ほぼ40分ほどの朗読はヴァイオリンの伴奏があり、極楽寺の客殿を使った舞台にはロウソクの灯りがしつらえてあった。この作品のオリジナルのタイトルが「乱橋」とある。鎌倉材木座にあったというこの橋は今はないが石碑が立っている。朗読の後で鏑木清方記念館の学芸員の方による解説があり、泉鏡花と鏑木清方が小説家と挿絵画家として懇意であったことを教わった。

「星あかり」は鏡花先生が尾崎紅葉大先生に弟子入りする一年ほど前に、金沢から出てきて友人の医学生と東京周辺をうろうろしていた頃に、材木座の妙長寺で夏を過ごした時の経験をもとにしているそうだ。妙長寺に滞在した時には、友人が夜逃げしてしまい宿代が送られて来るまで、鏡花先生の外出にも見張りがついてきたそうだ。「星あかり」という作品にはその友人とのエピソードと、自分の将来を慮ってなのか不安な雰囲気が描かれているので面白い。妙長寺は大町の交差点から海に向かう通りにある。大きなお寺ではないが玄関に日蓮上人の立像があり、その脇に鏡花先生の短い滞在のことを説明した案内板が掲げてある。

朗読会では「星あかり」全編に加えて、「高野聖」のポスターの情景部分の朗読があり、今度はヴァイオリンではなく鐘や小石やグラスなどを使っての伴奏がついた。なんとも言えない妖し気な舞台に感動した。



2016年9月22日木曜日

吉村萬壱「臣女」

この本の著者が2003年に芥川賞を取った「ハリガネムシ」も凄い本だった。それ以来この人の作品にめぐりあっていなかったが、先日書店で9月新刊の文庫本を見つけた。不思議な題名で意味がわからない。徳間文庫の帯で小池真理子氏がこの本を激賞している。読んでみたくなった。第22回の島清恋愛文学賞の受賞作だそうだ。

たった一作を読んで吉村萬壱という小説家のことが気になっていたのは、この人のインタビュー記事を読んだことも影響している。ウェブで検索して出てきたのをたまたま見つけた記事だった。わたしがこだわりをもって読みこんでいる車谷長吉氏の「赤目四十八瀧心中未遂」を好きな本として挙げてあった。マイペースで書きたいことを書いている偏屈な感じと、作品にみなぎる緊張感が共通していて納得した。それ以来、もっと読みたいと思う気持ちと、「ハリガネムシ」が凄まじい読後感だったのでためらいの気持ちと両方だった。

その「ハリガネムシ」のイメージと恋愛小説の名手である小池真理子氏のイメージとさらには「恋愛文学賞」のイメージが結びつかないので、推薦の理由が知りたくて読んでみることにした。読了した。凄まじい本という点では「ハリガネムシ」以上だ。文庫本の後ろについている小池氏の解説は映画化もされた島尾敏雄「死の棘」との対比から始まる。こちらも有名な作品だがやたら厚いのと、話が暗くて気が滅入ったので途中で投げ出している。

「臣女」も途中で投げ出しそうになった。汚かったり、気が滅入るような描写がこれでもかと続く。変身譚という見方もできそうだが、この本で描かれているのは怒りが原因で異形のものとなりつつある妻の姿というよりも、そこまで妻を追い詰めた自分を冷ややかに眺めている教員と小説家の二足の草鞋をはいている作者自身のようでもある。恋愛文学賞を受賞したくらいだから「夫婦の物語」でもあるが、「介護の物語」として読むとこの本がやたらとリアリティに満ちていることに気がついた。ここ数年、自分の親、つれあいの親、老境に入りつつある2匹のワンコなど、介護のことを考えざるを得ない状況が続いているので、他人事とも思えない。


 

2016年9月5日月曜日

イワン・ブーニン 「パリで」とアントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」

10歳違いのアントン・チェーホフとイワン・ブーニンがお互いを尊敬していたことは知られている。40代でチェーホフは早逝し、亡命し60代半ばでノーベル賞を受賞したブーニンは80代まで生きた。ブーニンの死後に未完原稿として「チェーホフのこと」という評論が刊行されている。ブーニンが70代で書いた「暗い並木道」という短編集は鬼気迫る傑作だ。ほとんどの短編に濃厚な死のイメージがあるのは自らの死が迫っていることを自覚してのものだろう。鮮烈で奔放な性のイメージがちらつくのは死の訪れを意識した老人が若い日の恋を回想しているように思われる。いくつも心に残る作品がある中で「パリで」という作品は特に印象が強い。

この作品の主人公はブーニンと同じく革命後にパリに亡命したロシア人で、この短編集の中でも特に小説家自身に近いと思わせる作品だ。さらに面白いのは皮肉たっぷりの短い警句を発する主人公のイメージがチェーホフの中篇としてはおそらく最高傑作である「犬を連れた奥さん」の主人公のイメージと重なる点だ。こちらは映画化されDVDにもなっている。避暑に訪れたヤルタの街で出会った若いヒロインに恋をしてしまう家庭人の主人公は、これまでも何度も火遊びを経験した女性崇拝者でありながら「女は下等な生き物」で困った存在だと考えている。本人のほうがよっぽど困った人だ。

「パリで」の冒頭でこちらの主人公も「美味しいメロンとまっとうな女を見分けるほど難しいことはない」という考え方の持ち主だ。妻に逃げられたことが今でも傷になっているという設定のこの主人公は女性に偏見を持っている。たまたま入ったパリのレストランでウェートレスをしているやはり亡命ロシア人のヒロインに出会う。このヒロインが親切に水差しをテーブルに置くと 「荷車が道をいため、女性が心を傷つけるように、水は酒を台無しにする」 という警句でヒロインを呆れさせる。そんな風に女性一般について悪口を言っておきながら、このヒロイン目当てにこの店に通ってくる。この主人公の人物設定は「犬をつれた奥さん」の主人公にそっくりだ。

ブーニンもチェーホフも中央アジアのロシア語圏で勤務していた頃に熱読した作家だったが、2011年にこの地域を離れてから自然と距離ができていた。昨日突然「パリで」の記憶がよみがえってきたのは、帰省から戻る新幹線の待ち時間に長岡で日本酒の店に立ち寄ったのきっかけだった。米どころの地酒が自慢のこの店では酒を味わう合間にチェイサーとして水を飲むことを勧めている。あちらの世界でブーニンがこれを知ったらびっくりしそうだ。




2016年9月3日土曜日

リンゴの気持ち ウイスキーの父竹鶴政孝と文学者伊藤整

しばらく前にNHKのドラマで脚光を浴びた北海道余市市は伊藤整の生まれた小樽市塩谷村に隣接している。この人の書いた自伝的小説「若い詩人の肖像」の中に何度も出てくる友人川崎昇も余市の出身だ。詩集「雪明りの路」の中に「林檎園の月」、「林檎園の六月」などの詩が収められている。この詩人はその後小説家となり「若い詩人の肖像」を書いた。若い日の恋や憧れを記述したほろ苦い青春記である。伊藤整は詩人から出発して、翻訳家、小説家を経て文芸評論家になった。若い日を思い出す作業には、年を経てからの自分の解釈が入るらしい。桶谷秀昭による評伝「伊藤整」によると、伊藤整の恋人として描かれている女性が事実と異なる部分があると主張したことが書かれている。この自伝的小説がとても面白いので、しばらく前にブログを書いた。

NHKの朝ドラはニッカウヰスキーの創業者、竹鶴政孝夫妻の物語だった。ニッカという社名は大日本果汁に由来する。余市のリンゴ栽培の開始は、明治維新と関係がある。戊辰戦争で敗れ、故郷を離れて余市に入植してきた旧会津藩士らにより、北海道のリンゴ栽培が始まったと伝えられている。1896年には余市のリンゴは「大阪全国大博覧会」で上位入賞を果たしている。竹鶴政孝氏は1894年に広島県で生まれた。伊藤整は1905年に塩谷村で生まれた。竹鶴政孝が壽屋(現サントリー)から独立し、余市に大日本果汁を設立したのは1934年のことだ。したがって伊藤整の青年時代の詩集にはウイスキー蒸留所の話は出てこない。長年の熟成を必要とするウイスキー造りで竹鶴敬孝を支えた余市のリンゴ園は若い日の詩人伊藤整の出発点でもある。

 

2016年8月25日木曜日

角田光代「さがしもの」

新潮文庫に入っているこの本には9本の短編が収められている。冒頭の「旅する本」という物語がとても面白い。東京で一人暮らしをすることになって部屋も狭いし、飲み代にも困って他のものと一緒に一冊の文庫本を古本屋に売り払う。学生時代が終わるにあたって卒業旅行で出かけたネパールのポカラの安宿の近くの古本屋でその本に再会する。風変りな本でそういう本を読む人はネパールや60年代ヒッピー風の生活に憧れる傾向があると考えれば無理な話とも言い切れない。この人は雨に降られて宿にとどまっている暇つぶしもあってその文庫本を再読する。荷物を減らすためにその本をカトマンズで売り払う。

社会人になった主人公が仕事でアイルランドを旅している時にふらりと入った古本屋でその本にめぐり合う。現実味がないなあと主人公自身が述懐しながらこの人はその本を買い求め、パブでギネスを飲みながら飛ばし読みする。帰国途中のロンドンでその本を売ってしまおうと考える。それはこの次どこで出会うことになるのか興味があるからというのがこの不思議な短編の結末である。

この本の味わいはそれが現実がどうかにあるのではない。童話だと思えばすむことだし、あるいはそういう節目節目でその本の内容を思い出したことを書いたと思えばありそうな話だ。

余談がある。去年の春、まだロンドンに住んでいた時に旅行中のOさんご夫妻が訪れてくれた。長いことご無沙汰だったキューガーデンズにご一緒したり、野生の鹿のいるリッチモンド公園にワンコも連れて行って散歩したりで楽しかった。お土産にいただいた日本酒を飲みながら、夜更けまで好きな本の話をしたときに登場したのが角田光代さんだった。都の西北にある大学の学生時代に学年が近かったのでご縁があるらしい。映画化された「紙の月」は宮沢りえ主演の映画も凄いが、原田知世主演のドラマ版も鬼気迫る感じがした。

安野光雅「繪本 即興詩人」

この人の優しい色調の絵はこれまでも見たことがある。ある日この挿絵入りの随筆のような本が居間のテーブルに置いてあった。つれあいが買ってきたものだった。森鴎外に興味があるのだろうか?、即興詩人に興味があるのだろうか?と訊ねてみると「別に。絵が素敵だから買ってきた」とのことだった。

アンデルセン原作の「即興詩人」には一昨年から興味を持っている。黒沢明監督の「生きる」にも、五藤利弘監督の「想い出はモノクローム」にも登場する「ゴンドラの唄」の由来について調べているうちに作詞した歌人吉井勇が種本としたのはこの本に違いないと思ったからだ。その辺りの詳しい経緯は別にブログで書いている。この唄の由来については塩野七生氏も推論を著書の中で書いている。イタリアの古謡に由来するという指摘はその通りなのだが、それが吉井勇に伝わったルートについて明確な説明がない。この点は森鴎外の訳した「即興詩人」を読めば答えは明らかである。本書142頁の「妄想」という章で安野氏もゴンドラの唄に言及している。

この絵本を書いた安野さんという人はこの物語が大好きらしい。先日、書店でこの人の「現代語訳 即興詩人」という本も手に取ってみた。アンデルセンからの訳ではなくて、森鴎外の文語訳を現代語訳にしたものだ。こういうとことん徹底したこだわり方はすごい。そういう点ではわたしも自分訳を試みてみたい本が一冊ある。いつかと思っているが、残された時間もゆっくりとではあるが限られてきたように感じるこの頃だ。

それはさておきこの画文集とても素敵な本だ。

 

2016年8月14日日曜日

キルギスでアーネスト・ヘミングウェイ「移動祝祭日」を読んだ

721日はヘミングウェイの誕生日だったので、キルギスの友人たちが草原で酒を酌み交わしてヘミングウェイを偲んだというFB投稿を読んだ。キルギスにいた頃に新潮文庫で「移動祝祭日」を読み共感したので、「武器よさらば」と「日はまた昇る」を読んだ。面白かった。わたしが50代になった頃の話だ。「移動祝祭日」はまだヘミングウェイの名声が確立する前のパリ時代を中心とした回想録だ。この本の中でヘミングウェイがフィッツジェラルドとの関わりについて書いているのが面白い。「グレート・ギャツビー」を書いたフィッツジェラルドのことは20代の頃から好きだったので、複雑な気持ちになった。ずいぶん手厳しい人物評だ。 お互いの魅力を認め合いながら、やがてすれ違う人たちの例として、四方田犬彦氏が由良君美先生に捧げるために書いた「先生とわたし」という本を思い出した。

2016年7月17日日曜日

原田マハ 「楽園のカンヴァス」

原田マハという人の小説がフェースブック友だちの間で話題になっていたので「キネマの神様」、「楽園のカンヴァス」、「本日は、お日柄もよく」と3冊読んでみた。どれも面白い。「キネマの神様」については別にノートを書いた。

「楽園のカンヴァス」も圧倒的に面白い。この小説の主人公は大原美術館に勤めている監視員の女性という設定になっている。この美術館の館長として一年前に就任した「国内屈指の西洋美術史家・宝尾義英」という人物が登場する。実際に大原美術館の館長で、美術評論の大御所である高階秀爾氏が新潮文庫版の解説を書いている。小説のあらすじはアンリ・ルソーの作品の真贋をめぐる駆け引きと、ルソーとピカソの関係をめぐってのミステリー仕立てになっている。大規模なルソー展を日本で開催できるかどうかがきっかけとなり、過去と現在が交錯する。

1975年のフェルディナンド・ホドラー展のことを思い出しながらこの小説を読んでいた。2014年の暮れにも40年ぶりのホドラー展が開かれていた。世紀末の象徴主義の画家として、ウィーンのクリムトと並び称されるスイスの人だ。なかなか外の展覧会への貸し出しがないのは大きな絵が多くて搬送が大変なこともあるが、ドキッとする題材もあって扱いに困ることもあるからだろうと思っている。チューリヒに行く機会があった時にこの人の絵に再会した。自分の好きな画家、好きな絵についてのこだわりのある人にとっては、この原田マハの小説はとても面白い。
 
 

 

チェーホフの作品の思い出

7月15日は1904年に44歳で亡くなったロシアの小説家・劇作家アントン・チェーホフの命日だった。百年以上経った今でも、この人の戯曲が世界各地で上演され、小説が読まれている。チェーホフはロシアの南西部でウクライナに近いタガンログに生まれたが、父さんの家業が失敗して借金に追われるようになり、この街を離れたようだ。モスクワの医学生だった時代から、家族を支えるために新聞などに原稿料目当ての短い文章を書き始める。「アントシャ・チェホンテ」のペンネームでユーモアと才気の光る短編を書きまくる。この頃の短い文章は面白さはあっても、深みのある作品とは言い難い。やがて医師となり、さまざまな人々の生活を観察し、30代になり、40代になってこの人の書いたものがどんどん深みを増していった。世界中で上演される4大戯曲も良いが、わたしが好きなのは「犬を連れた奥さん」、「イオーヌィチ」など晩年の短い小説だ。

学生時代から太宰治とか伊藤整などの本でチェーホフの名前は知っていたが、本を読んだことがなかった。仕事でビシュケクに住むようになって、この作家がロシア語圏のみならず、ロンドンの書店でも人気があることに気がついた。乗換えのためのモスクワ空港で「犬を連れた奥さん」のCD本を買ったのがきっかけで、日本から文庫本を取り寄せた。それから逐語で訳を対照しながら、原文を追った。このやり方は熟読に役立つが短い作品にしか使えない。
4章構成のこの中編はとても面白い。主人公のグーロフ君は、これまで女性遍歴も重ねてきた経験から「女性と言うものは実際の彼を理解することができずに、勝手に作り上げた自分のイメージを追いかけるだけの阿呆な連中だ」とバカにしている。海千山千のはずの彼が運命の人に巡り合う。かつての恋愛沙汰を振り返りながら自問自答を繰り返す場面での独白が鋭い。冷徹な人生観、中年男の倦怠、人生をどうしきり直すのかなどが率直に論じてあって味がある。

それから熱が入ってきて2003年と2008年の夏をサンクト・ペテルブルグで過ごした。2度目の短期滞在の時にはCDからMP3の時代に移りつつあった。この時「イオーヌィチ」を買ったのはオーディオ本のカバーがとても印象的だったからだ。医師だったチェーホフ自身を思わせる青年医師イオーヌィチが若い娘に恋をする。ノートに書かれた娘の返事は「今夜会いたい」だった。心ときめかせたイオーヌィチは指定された墓地に向かう。とても印象的な作品だ。

チェーホフは1890年、30歳の時に「サハリン島」という紀行を書いた。その後大きく作風を変えた転機と言われている。「気まぐれ女」(1892年)、「かもめ」(1895年)、「恋について」、「イオニッチ」(1898年)、「犬を連れた奥さん」(1899年)などの佳作を残している。4大戯曲と言われる「桜の園」、「かもめ」、「三姉妹」、「ワーニャ叔父さん」も面白い。この人が晩年になってたくさんの戯曲を書いたのは、小説の文名が上がってからも、出版社との前借契約に縛られてさほどの収入にならなかったので、仕方なく戯曲を書いてからだという話が面白い。この人は作家としてのキャリアの始まりが金に困っていたからで、晩年になっていくつもの名作戯曲を書いたのも同じ理由だということになる。何が幸いするかはわからない。2012年の夏にタガンログを訪れた時に撮影した写真がある。




2016年6月27日月曜日

宇野千代が萩原朔太郎と伊藤整に与えた影響

中公文庫の宇野千代「私の文学的回想記」はまだロンドンに住んでいた頃にピカデリーの日本の書店で見つけた。1972年の本が「何で今頃?」と思ったが文庫に入ったのは2014年だからまだ新しい。この本を読んでいて連想した本がある。詩壇・文壇の人々との交流を、自分史として書いた伊藤整の傑作「若い詩人の肖像」だ。宇野千代の回想記の解説によるとこの人は山口県の出身だ。岩国高等女学校を卒業後、小学校の代用教員になり、恋愛事件を起こして職を追われ、三高生だった従兄弟と京都で同棲する。この従兄弟が東京帝大に入学したので上京し、本郷三丁目のレストランで働く。この回想記はその頃から物語りが始まっている。帝大を卒業して北海道拓殖銀行に就職した従兄弟と結婚して藤村姓となり、札幌に移り住んだ。

かすかに記憶の中で響くものがあった。気になって調べてみた。見つけた。伊藤整の「若い詩人の肖像」の第一章「海の見える町」に「札幌のある会社員の妻が、小説を書いて東京に出、「中央公論」にこの頃作品を発表している。藤村千代というのがそれだ」 という記述がある。小樽と余市の間にある小さな村に生まれた伊藤整は旧制中学の頃から詩や英文学に目覚め、小樽高等商業に進学してからもやがては東京に出て詩人となることを夢見ていた。そういう伊藤青年が、同じ北海道から一足先に都に出て活躍し始めた新進作家として意識していたのが宇野千代だったことになる。伊藤整の自伝的小説を読んだのは高校の現代国語の教科書だった。あれから40年ほど経って、この藤村女史が宇野千代であることに気がついた。


宇野千代の回想記の中に登場する詩人・作家たちのエピソードが面白い。宇野千代が尾崎士郎と馬込の家に住んでいた頃に宇野千代が当時の「断髪」というモダンなおかっぱにしたことが様々な反響を呼んだそうだ。萩原朔太郎の当時の夫人が影響を受けて、同じく断髪にすると若く見えるようになり、年下のボーイフレンドを作って萩原家を出て行ったそうだ。萩原先生には気の毒な話だが、この大詩人がもしも家庭の幸福に満足する毎日だったらあれほどの傑作群を書けたかだろうかという気持ちもする。


萩原朔太郎と室生犀星の友情はよく知られているが、萩原家を出て行った夫人に影響を与えた「新時代の女」宇野千代に対して、室生犀星は晩年まで反感をあらわにしていたというエピソードも面白い。宇野千代は萩原朔太郎とは近所の友人の域を越えた付き合いはなかったそうだが、馬込の田圃の中をよく散歩したそうだ。ある日、萩原先生は「何千万年か後に、また、かうしてあなたと一緒に、この馬込の田圃の中とそっくり同じところを、いまとそっくり同じやうにして散歩することが、きっとある。」と語ったそうだ。


室生犀星が宇野千代に反感を持っていたのは、必ずしも別れた萩原夫人が理由ではなくて、萩原朔太郎本人にとって、宇野千代が危険だと友人の直観で感じていた可能性もあるだろう。芸術家を友だちに持つ人がその芸術家に近寄る女性に反感を持つのは世界的に共通した心情だ。イタリア映画の傑作「ニュー・シネマ・パラダイス」の物語もそうだし、作家開高健の学生時代からの友人谷川永一が開高夫人となった詩人牧羊子に示した反感にも共通するものがありそうだ。

世の中には面白い本がたくさんあるが、一冊を手にした途端に次から次へと他に連想が広がる本は楽しい。宇野千代の回想記はとても面白い。



2016年6月8日水曜日

新美南吉 「手袋を買いに」

新美南吉という人の童話を初めて読んだのは中学校の現代国語の教科書だった。「牛をつないだ椿の木」という物語が印象に残ったので童話集を読んでいる。狐の子が人間の住む世界まで手袋を買いに行く「手袋を買いに」を書いた新美さんはこの不思議な花のことを知っていたのだろうか? 狐の手袋(fox glove) は英国で庭の花として人気がある花だ。ジギタリスという指を意味する別名もある。昨年の秋まで住んでいたロンドンの近所でも散歩の公園でもあちこちで咲いていた。夏の風物詩である。この優美な花は薬草にもなるが、猛毒でもある。

この童話を絵本で読んだ人も多い。物語としては今では教科書に採用されなくなったそうだ。人里離れた森に棲む狐の親子の設定は個人と社会のほどほどの距離感を感じさせるしみじみした物語だ。渡る世間に気を付けなければならないことをやんわりと教えてくれる物語でもある。それが「子狐を危険にさらした母親はけしからん」という面だけを捉えた批判につながってしまうのは寂しい話だ。今では近所のコンビニやら郊外の大型スーパーやらで便利に買い物ができる時代だが、わたしが子供の頃には町までてくてく歩いて買い物に行ったものだ。子供たちがお使いを頼まれるというのは日常的な風景だったと思う。

http://youtu.be/OnBE6bPdgAE

 

2016年4月30日土曜日

田中冬二 「つつじの花」

今年もまたつつじの季節になった。田中冬二という詩人の「つつじの花」という作品を思い出す季節でもある。田中冬二全集全3巻は京都に遊びに行った時に河原町の古書店で買ったものだ。同じ書店で井上靖「私の西域紀行」上・下巻、長沢和俊「シルクロード文化史」I・II巻も買っている。タシケントに赴任する前の一時帰国で中央アジア本を探していた。その時たまたま田中冬二の全集を見つけた。中学校の国語の教科書で読んで以来で懐かしかった。

「若葉した山の処々に
火のように燃えているつつじの花
麦の穂も出揃った
あかるい縁側で蜂蜜の壜に
レッテルを貼っていた
紫雲英の花の蜜であった
家の中で時計が十一時を打った」

2015年の4月にロンドンで観たイザベラ植物園のつつじが記憶に残っている。ロンドン西部にある広大なリッチモンド公園の中に森がある。外からは見えないような形の小さな渓谷全体がつつじに覆われていた。その風景を見て以来、何かが変わったような気がしている。4月の末からほぼひと月ほど数日ごとにその場所でつつじの群生の変化を眺めていた。こんなに美しいもののそばにいながらそれまで見たことのなかった自分の生活が少し変だと思った。死ぬ前に見たいものはまだたくさんあるはずだという気がした。1991年の1月に日本を離れてから四半世紀に及んだ海外生活に区切りをつけるタイミングを調整していた。その年の秋に日本に戻ることにした。

年が明けて2016年の4月は西鎌倉の母を送る月となった。庭に咲いていたつつじを手向けの花としたので、来年からは母を思い出す花になる。季節の花を庭で育てて居間から眺めるのが好きだった母は、自分で育てた色とりどりのつつじに囲まれて彼岸へと旅立った。49日の法要の後で成仏となるのだそうだ。ご縁が出来てから30年は遠方で暮らすことが多かったが、本当にお世話になった。合掌。



2016年4月1日金曜日

プーシキンの詩 アンナ・ケルンに

2003年の1月にモスクワを訪れた。出発直前にタシケントの雪中ゴルフで背筋を痛めて大騒ぎしたのでこの旅のことはよく覚えている。仕事が終わって同僚たちと訪れたミュージアムの入り口で、プーシキンの歌曲のCDを売っていたのを記念に買ってみた。一曲目のピアノのメロディが気に入り、何の歌なのか知りたいと思った。ロシアのロマンスの訳にしばらく熱中することになるきっかけだった。プーシキン詩集は金子幸彦訳が岩波文庫にある。詩文として訳すのか、訳文として訳すのかいろいろなやり方があるとと思う。わたしなりの訳も試みてみた。

Я помню чудное мгновенье       わたしの前に貴女が現れた時の
Передо мной явилась ты,         
魔法のような瞬間を思い出す
Как мимолётное виденье,         それは一瞬の幻だったのか
Как гений чистой красоты.        それは純粋な美の現われだったのか

В томленьях грусти безнадежной   絶望に打ちひしがれながら
В тревогах шумной суеты,        日々の煩わしさの中で
Звучал мне долго голос нежный     貴女の優しい声が長く聞こえていた
И снились милые черты.         貴女の愛らしい面影を夢に見ていた

Шли годы. Бурь, порыв мятежный   幾年が過ぎた 激しい嵐に
Рассеял прежние мечты,          かつての夢は消え失せた
И я забыл твой голос нежный,      貴女の優しい声も忘れていた
Твои небесные черты.           この世ならぬ面影も忘れていた

В глуши, во мраке заточенья      孤独な闇の中に囚われて
Тянулись тихо дни мои          わたしの日々は静かに過ぎた
Без божества, без вдохновенья,     祈ることもなく、霊感が閃くこともなく
Без слез, без жизни, без любви.     涙も、生きることも、愛することもなく

Душе настало пробужденье:      
貴女が再び現れた時に
И вот опять явилась ты,          
わたしの魂は目覚めてしまった
Как мимолетное виденье,         それは一瞬の幻だったのか
Как гений чистой красоты.        それは純粋な美の現われだったのか

И сердце бьется в упоенье,        わたしの心は歓喜に波打ち
И для него воскресли вновь        祈ることも、霊感の閃きも
И божество, и вдохновенье,        生きることも、涙も、愛することも
И жизнь, и слезы, и любовь.        わたしの心によみがえった


2016年3月26日土曜日

歌人吉井勇 沈丁花と馬酔木

わたしの郷里である越後長岡から旧制長岡中学を終えた堀口大學先輩が上京したのは1909年のことだ。堀口先輩はこの上京の列車の中で吉井勇の歌を読んで心酔し、その秋に新詩社に参加する。浪漫派の歌人吉井勇は詩人堀口大學の誕生に影響を与えたということになる。

明治19年(1886年)に東京で生まれた歌人吉井勇は、19歳の時に肋膜を病み鎌倉で療養のために夏を過ごした。年譜によると与謝野寛に手紙を書いて新詩社に参加したのもこの頃だ。明治42年(1909年)には雑誌「スバル」が創刊され、編集に参加した。その後も鎌倉長谷に住んだりした。それで歌集をめくるとあちこちに
七里が浜や鶴岡八幡宮など鎌倉を舞台にした歌が出てくる。

代表作である「酒ほがい」という歌集の中に「その夜半の十二時に会ふことなどを誓えど君のうすなさけなる」という歌があります。中央アジアで働いていた頃に読んだチェーホフの小説を連想しました。早逝したこのロシアの作家は晩年に印象的な作品を残しています。小説「イオーヌイチ」の中で重要な役割を果たす出来事がこの吉井勇の歌そのままなのが面白い。

鎌倉の古寺をめぐりながら散歩すると沈丁花や馬酔木をよく見かける。歌集の中にも出てくる。

「沈丁花にほふ夕やしくしくと胸ぬち痛むものあるごとし」

「この夜また身に染むことを君に聴く沈丁花にも似たるたをやめ」

「うたがひもほのかに胸に来るときは沈丁花など嗅ぐここちする」

「萬葉の相聞の歌くちずさみ馬酔木の花はみるべかりけり」

「萬葉のむかしを思ふこころもて馬酔木の花の咲くころに来む」

「寂しければ垣に馬酔木を植ゑにけり捨て酒あらばここに灌がむ」


2016年3月11日金曜日

森敦「わが青春 わが放浪」 「走れメロス」のモデルは誰だったのか?

このところ幾冊も読み始めると別の本を教えてもらうことが続いて読了してないが面白い。森敦は檀一雄と仲良しだったらしい。檀一雄は太宰治の友人として知られている。この本の冒頭で森敦は、太宰の作品である「走れメロス」が書かれた経緯について解説している。太宰と檀の二人が湯河原に遊んで金を使い果たした時に、檀を旅館の人質にして太宰が金策のために東京に戻ったそうだ。ところが金策に失敗した太宰はそのまま戻らなかったらしい。森敦はこのことを「驚いたことに太宰治はこれを「走れメロス」という小説に書いた」と書いている。

森敦の考察がユニークなのは「太宰自身がメロスと思われがちだが、実は檀一雄である。」としている点だ。教科書にも載ったのでよく知られている太宰の 「走れメロス」はドイツの詩人・劇作家だったシラーという人の書いた詩を原作としている。友人を人質にする話だから、湯河原に旅館の人質として残ったのが檀一雄であるならば、メロスは太宰であって良さそうなものだ。森敦の説明はどういう意味なのだろう?

檀一雄はいくら待っても太宰が湯河原の旅館に戻って来ないので、自分も旅館に頼んで東京に戻り、太宰を探し歩いたらしい。太宰としては、親友を人質に置いて走り回る自分をメロスとしてイメージしたのだろうが、事情を聴いた森敦は太宰を探して東京の心あたりを探し回った檀一雄こそがメロスにふさわしいと考えたのだろう。面白い。

2016年2月25日木曜日

多和田葉子 「夢という辞典」 (野谷文昭編 「日本の作家が語る ボルヘスとわたし」 所収)

ボルヘスという人の名前を知ったのは20代の頃に読んだ大江健三郎のエッセイだったと思う。栃尾ツアーで写真家のKさんのお宅を訪ねてスタジオを見せていただいた時に不思議な塑像が印象に残った。Kさんの「43年の夢」という写真集の中にもこの塑像は登場してくる。その時に机の上に置いてあったのがボルヘスの本だった。とても気になったのでジュンク堂でボルヘス本を数冊買い求めてきた。数十年ぶりの積読書へのトライなのでまずは本の読み手たちによる紹介本から始めることにした。それで野谷文昭編「日本の作家が語る ボルヘスとわたし」を読み始めた。編者を含む10人の作家によるボルヘス論集だ。

この本の中で2つめの「夢という辞典」という文章を書いている多和田葉子さんがボルヘスのことを様々なテーマで物を集める「収集家」と定義している。この収集家の採集場は図書館である。わたしのFB友だちにも図書館の専門家は数人いるので、時々本の分類についての考察やら不満やらについての投稿を見かけるが、多和田さんの解説が鋭い。あいうえお順でもなく、分野別でもなく、地域とか国別でもなく、個人的なテーマで本を集めて分類するとすれば解決策は一つしかない。自分の図書館を作ることだ。ボルヘスの場合は「夢」とか「幻獣」とか変わったテーマが多いので独特のコレクションの場所が必要になる。

アルゼンチンで読書家の両親の家に生まれたボルヘスは子供の頃から数千冊の蔵書に囲まれて育った。若い頃には市立図書館の司書として働いたこともある。晩年には国立図書館の館長も務めている。よほどの本好きらしい。小説家としても詩人としても名を成したが、「伝奇集」、「夢の本」、「幻獣辞典」など収集家の仕事のような題名の作品が多い。



2016年2月20日土曜日

津島祐子 「黄金の夢の歌」 

ビシュケクの街の中心には騎馬に乗った英雄マナスの像が立っている。この英雄物語を伝承してきたマナスチと呼ばれる語り部たちがいる。2008年の夏の日だった。日本の家庭料理店「亘」でお昼を食べていると日本センタ―所長の浜野さんがお客さんを連れてやってきたのでご挨拶した。津島祐子さんと同行の出版社の人だった。取材旅行に来られたのだそうだ。2010年4月のキルギス政変のしばらく前のことだ。2010年の秋になって日本から送ってもらった新聞切り抜きに「黄金の夢の歌」の広告が載っていた。キルギスが舞台の本だろうかという期待でさっそく日本から取り寄せた。

津島さんがキルギスを訪れ、首都のビシュケクから西端のタラスまでの旅したことが第2章から第4章にかけて描かれている。マナス像が立っている場所にかつてはレーニン像があったことや、フェルト製のカルパック帽のこと、馬乳酒のこと、移動式の天幕のこと、8世紀のタラスの戦いのこと、伝説の英雄マナスの奥さんの名前がカニケイだったこと、玄奘三蔵法師のこと、キルギスの嫁さらいの風習のことなどが淡々と描かれている。キルギスに住んだ人にとっては懐かしい気持ちを呼びさましてくれる本だ。この美しい国を訪れたことにない人にはとても良質の旅の手引きになるだろう。

マナスのキルギス、この著者の父祖の地である青森、アイヌの北海道、さらにはアレキサンダー大王のマケドニアまで歌を手がかりにしてユーラシア大陸の各地に旅する物語だ
。評論家の柄谷行人がこの本についてコメントしているのをウェブで見つけた。「黄金の夢の歌」の中に頻繁に出てくる蹄の音と、太宰治の小説「トカトントン」の中に出てくる擬音とに関連があるのではないかという指摘だ。親子の絆ということになる。不思議な感じのする本だ。


2016年1月21日木曜日

木乃伊と月山の話

展覧会のために中国からオランダに運ばれた仏像をCTスキャンで調べてみたら内部に人間の木乃伊が入っていることが分かったという話をニュースで読んだことがある。このようなことが起きるとすると、それがたった一体だけということもなさそうな気がする。世界中の仏像をCTスキャンしたらどれだけの数の木乃伊が出てくるのだろうか?

木乃伊の話をフェースブックでシェアすると片品村にお住まいの先輩から「森敦の「月山」を思い出した」という返信をいただいた。
この作家が長い放浪生活の後で芥川賞を受賞した時は大きな話題になった。だいぶ昔の話だ。この本に奥深い山の中で行き倒れた人の死体から木乃伊を作る話が出てくる。その昔から月山は「死者の行くあの世の山」とされてきたそうだ。

新井満という広告業界から転身して作家になり、作曲し、歌手でもあったこの人が小説の冒頭部分の歌詞に曲を付けた。ゆったりした美しい歌なので、今でも覚えている。この人は後年になって「千の風になって」というやはり死者をテーマにした英詩を、和訳し曲をつけて歌った。この人の歌声が好きだ。この人は新潟県の出身である。

司修の書評集「本の魔法」の中に「月山」が出てくる。小説「月山」の装丁をした人だ。装丁家であり、画家であり、小説も書いている。この人のエッセイが素晴らしい。月山が「死者の行く山」であり、「臥牛山」とも呼ばれることについての記述を紹介して「死とエロスの混じった生の匂いがしてくる」と書いている。母牛がゆったりと座った様子からの連想だろう。新潟県出身の小川未明が「牛女」という童話を書いたことと共通している。この童話については別のブログで書いた。

2016年1月6日水曜日

米原万里「真昼の星空」と丸山薫「美しい想念」

ロシア語同時通訳者の米原万里さんはエッセイストとしても名高い。2006年に病没したこの人は「真昼の星空」という随筆集の中でオリガ・ベルゴリツという人の「昼の星」という文章について書いている。「現実には存在するのに、多くの人の目には見えないものがある。。。「昼の星」はそういうもの全ての比喩であった。」 米原さんがお母さんにその話をすると、「日本にも昼行灯という言葉があるよ」と教えてもらったという思い出の記だ。

高校生の頃に読んだ丸山薫という詩人の「美しい想念」を思い出した。「夜空に星が煌めくように 真昼の空にも星がある さうおもふ想念ほど 奇異に美しいものはない。。。」。受験勉強に飽きると図書館で関係のない本を開いて気晴らしをしていた頃に、ノートに書き留めた好きな詩だ。今でも夜になると、仕事とは無関係の本が読みたくなる。人間の行動パターンというのは変わらない。


広いユーラシアのあちらこちらに住んでいる人たちが星を眺めて同じようなことを考えていた。なにかうれしい気持ちになる。


2016年1月5日火曜日

吉井勇と浅草の仁丹塔

吉井勇という明治生まれの浪漫派の歌人がいる。秋の歌も酒の歌も良い。この歌人が仁丹の看板のある風景を歌っていると鎌倉の父が教えてくれた。大正の頃の浅草は東京の中心であり、仁丹塔はランドマークだったようだ。仁丹の看板を子供の頃に見た記憶があるが、今時の日本で見かけることはなくなった。2011年の秋に台湾を訪問した時に店先で見つけて懐かしかった。

「東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹の灯よさらばさらばと」


「浅草の鳩も寂しく思ふらむ日頃見馴れしわれを見ぬため」


「うつくしき夜の色こそわすられねああ東京よすこやかにあれ」


祇園の情景を歌った一連の歌の中にもやはり仁丹の広告が出て来る。 


「かにかくに祇園は恋し寝(い)るときも枕のしたを水のながるる」


「仁丹の広告も見ゆ橋も見ゆああまぼろしに舞姫も見ゆ」





小川未明 「牛女」 生者と死者の境界の話

海と夕陽の写真から「黄昏時は生者と死者を隔てる境が曖昧になる時間だ」という話になった。 彼岸の世界にいるのは恐ろしいものばかりではない。会いたい人もいる。「赤い蝋燭と人魚」を書いた小川未明は新潟県上越市の出身だ。「牛女」という童話がある。気立てが良くて働き者の大柄な女の人がいた。耳が不自由だったことと、大柄なのを気にして、背を丸めるようにしていたのか「牛女」とよばれていたという物語である。この人にやがて男の子が生まれる。可哀そうなことに牛女は小さな子供を残して死んでしまう。医学も薬もまだ発達していなかった時代の話だ。夕暮れ時になると牛女の姿が光の具合で山に写るようになる。人々は牛女が子供のことを見守っているのだと言い、男の子は無事に大きくなる。牛臥山とか牛伏山という地名がいくつかあるから、どこの田舎にでもありそうな話だ。

男の子は成長すると故郷を離れて商人となり、成功して故郷に戻り、リンゴ栽培を始めた。ところが何年もうまくいかない。花が咲き、実が生り、いざ収穫の時期が近ついた頃になると害虫が大量に発生してリンゴは全滅してしまう。人々は今は成長したこの男に尋ねる。「何か供養すべき人で忘れているというようなことはないか?」。男はそれまで頼る人もなく生きてきて、死別した母のことを忘れていたことに気がつき、母にわびる。その年の秋もリンゴの実がなると害虫がやってきたが、その年は牛女の姿が映る山の方角から蝙蝠の群れが飛んできてリンゴの害虫を食べてしまう。死別した母の魂と子どもの再会の物語である。


青森県が舞台の映画「奇跡のリンゴ」を観ていて、小川未明の「牛女」の話を思い出していた。リンゴの原産地はコーカサスの辺りから中央アジアの天山山脈の辺りらしい。平安時代に中国から日本に伝わり、明治時代になって盛んに栽培されるようになったそうだ。青森県で全国の半分くらいを生産している。この映画では無農薬栽培を試みてなんども害虫対策に苦しんだリンゴ農家の苦労が描かれている。リンゴの害虫とその天敵のバランスのとれた環境作りに成功する場面が「牛女」に描かれている場面によく似ているのが印象的だった。


池澤夏樹 「母なる自然のおっぱい」 桃太郎について

池澤夏樹氏は好きな作家だ。芥川賞を受賞した「スティル・ライフ」、「夏の朝の成層圏」、「マリコ/マリキータ」などいくつか懐かしい作品がある。「ブッキッシュな世界像」という書評も印象に残っている。池澤氏の桃太郎に関する文章が教科書にふさわしいかどうかが新聞で話題になったことがある。池澤氏はエッセイ集「母なる自然のおっぱい」(1993年) の中で「狩猟民の心」という文章を書いている。日本のヒーロー物語である「桃太郎」の話は、よその国に出かけ行って、そこに住んでいる人々を退治してしまう侵略の物語でもあるという趣旨の指摘がなされている。池澤氏は北海道で生まれ、ギリシャに住み、南の島を舞台にしていくつかの小説を書いた人だ。「狩猟民の心」は北海道のアイヌの人々のことを意識して書かれている。中央に住む人々の物の見方がすべて正しいとは限らないことについて指摘した文明批評の文章だ。

この本の文庫版(1995年、新潮文庫)のあとがきに、「福沢諭吉がまったく同じことを書いていたことに気がついた」と池澤氏は書いている。明治4年(1871年)に書いた「日々のおしえ」という文章の中にも、桃太郎に関する記述がある。「鬼が悪いことをしたのなら、それを退治するのは良いことだ。しかしその宝物を持ち帰りおじいさんとおばあさんにあげたのでは、ただ欲のための仕事であり、卑劣千万なり」という批判だ。これは立場を変えて物事を見るということ以上に、正しい動機で始まった行為が、その遂行の過程で変質する可能性についての鋭い指摘でもある。

昨年の新聞広告クリエーティブ・コンテストで最優秀賞を取った山崎博司氏のコピーのことを思い出した。「ボクのおとうさんは、桃太郎というやつに殺されました」というコピーは様々なメディアで紹介されていた。物事を両方の立場から見ることの大切さを訴えた力のあるコピーだ。山崎氏はシリア内戦に対するアメリカの軍事介入がきっかけになって、このコピーを書いたとインタビューで答えている。

桃太郎侍が悪党をバッサリやっつけたり、水戸の御老公が悪代官を懲らしめたり、遠山の金さんが人助けをしたら気分が良い。善のメタファーとしての善玉ヒーローがいる。悪のメタファーとしての悪役ヒールがいる。それを決まり事として受け入れてから、勧善懲悪の時代劇は成立する。現実には桃太郎と鬼が様々な理由でマスクを付け替えたりして、中身が変わっている場合もあるだろう。これは例えて言えば、外交交渉の代表団が、国益を守るために鬼神が乗り移った如くの激論を戦わせ、ようやく落としどころで合意した後で、本国にもどったら別の表情で、別の言い方をする必要があることにも似ている気がする。桃太郎の鬼退治が侵略でいけないのであれば、熊を相撲で負かした金太郎は動物虐待で、弁慶を負かした牛若丸は宗教弾圧になりそうなものだが、こちらの話はまだ聞こえてこない。


ジェームズ・ボールドウィン「もう一つの国」

最初に勤めた会社に入って5年が過ぎた頃アメリカに行くことばかり考えていた。現場を経験させるという会社の方針で埼玉県越谷市の営業所と浦和の支店で3年間を過ごした後で東京の本社に戻ってきた。それからの数年は滅茶苦茶に忙しい思いをした。内幸町の本店勤務は燃料の調達部門だった。海外の業界新聞や専門誌を読んで仕事に関係のある材料を集め月報の特集記事を書いた。仕事は面白かった。営業所にいた頃は仕事を覚えることに加えて、酒の付き合いも多かった。本を読む時間もない生活を3年続けると、いくら何でも生活を変えたいと思うようになった。一度目の結婚もその頃経験している。

燃料部にきて最初にやらされたのが石炭の高効率利用についての国際会議のパンフになっていた小冊子を訳すことだった。10日くらいかけて夜と週末で何とか和訳した。まだワープロが職場で使われる前の話だったので、手書きで分厚い紙の束になった。今から思えば冒頭のサマリーを数ページまとめるだけで済む話だから、地方の現場から、本店に配属された新人を手荒く歓迎してみただけなのだろう。この部局では夕方になると幹部たちが新橋のバーで酒を飲んだり、麻雀をしながら仕事の話をしていたのでそれにも付き合った。

平日の自由時間は限られていたので、英語が上手くなるためには何をすべきかとばかり考えていた。書店の英語コーナーでは松本道弘という「英語道の達人」の書いた本が良く売れていた。この人のやり方をいろいろ真似してみた。オーソン・ウェルズの渋い声が魅力的なイングリッシュアドベンチャーのテープも一生懸命聴いていた。国際コミュニケーションズという英語教育のプログラムも受講した。土曜日に赤坂見附でカナダ人の先生とのグループレッスンを受けるのが楽しみになった。

週末には新宿の紀伊国屋や神田の三省堂の洋書コーナーを訪ねた。何か一冊英語で読み通すべきだと思った。そんな頃にジェームズ・ボールドウィンの「もう一つの国」 (Another Country)を見つけた。主人公のカップルが多色の背景に浮き出ている表紙が刺激的だった。かなり厚いペーパーバックで三部構成になっていた。第一部の舞台はニューヨーク。黒人ミュージシャンのルーファスと白人のレオーナ。友人の作家ヴィヴァルドとその妻キャスが重要な役割を果たす。第二部はヴィヴァルドとキャスの関係について。キャスは夫に幻滅し始め、若い俳優エリックに魅かれてしまう。第三部はエリックとその友人イヴのゲイのカップルの話。当時の語彙力では苦労したが、面白い本なので読み通した。

若い頃は第一部の黒人ミュージシャンのルーファスに感情移入した。だいぶ年齢を重ねて興味を持ったのが第二部の主人公であるキャスだ。この人はクラリッサという本名を持っている。英語圏ではとても上品な名前らしく、照れくさいので通称を使っている。この人の他者との関わり方を象徴してもいる。粋なニューヨーカーとしてのキャスは作家である知的な夫ヴィヴァルドに満足しているが、自分探しの道で迷っているクラリッサとしては覇気の足りない夫に幻滅を感じ始める。人種、夫婦、ゲイのカップルと様々なテーマが盛り込まれ、緊張感に満ちた物語は鮮烈だった。

途上国で引っ越しを繰り返している内にぼろぼろになったので、不思議な絵が表紙となっていた本を処分してしまい残念だ。Penguin Classicsで大判で昔より読みやすい本が出ている。今度は失くさないように2冊買って愛蔵している。


マリオ・バルガス・リョサ 「悪い娘の悪戯」

マリオ・バルガス・リョサ「悪い娘の悪戯」(八重樫克彦・八重樫由貴子訳)の表紙絵がすごい。この本の帯には「ノーベル文学賞作家が描き出す壮大な恋愛小説」とある。普通だったらなんて悪趣味なタイトルかと思って敬遠してしまうところだ。グレアム・グリーン「情事の終わり」についても同じことが言える。もう少し抒情的なタイトルにしてくれないと買うのも、電車で読むのにも困るが、両方とも読み応えのある本だ。

気の良い主人公が小悪魔のような娘にこれでもか、これでもかとひどい目にあう。それでも魅かれる感情を制御できない。このヒロインは本当に性悪だ。ところがこの主人公は心のどこかでこの悪の女王様を崇拝している。主人公にとってこのヒロインはもはや当たり前の人間存在ではない。神に近いものだ。この荒ぶる神は時々途方もない荒れ方をする。それは津波のようなものであり、噴火のようなものだ。人智を超えた世界だから善悪の彼岸にある。この類のヒロイン像はどこかで読んだことがある。モームの「人間の絆」の世界ではないか。イギリスの作家とペルーの作家がおそらく若い頃に同じように痛い思いをして、同じような構造の本を書いている。


この本の表紙になっているのは「ユリシーズに杯を差し出すキルケ」という題の絵だ。この本の裏表紙には「嫉妬に燃えるキルケ」という意味あり気な絵が使われている。どちらも英国のラファエロ前派の画家 J.W.ウォーターハウスの作品だ。とてもしゃれた選択だ。この本は「運命の女 ファム・ファタール」の物語であり、とてつもない美しさと、男の心を踏みにじる残忍さと、男が逃げていくことは許さない独占欲の強さにおいてまさに人間の領域を越えた美女の物語だ。キルケという妖精に魅入られた男たちは様々な動物に変身させられてしまう。英雄ユリシーズはこの妖精の術にはまることなく豚になった仲間たちを救い出す。魔女により変身させられてしまう物語はいろいろあるが、美女の誘惑と異形のものと化して側近となる男たちについては日本にも泉鏡花の「高野聖」がある。


ユリシーズというのはローマ神話の英雄でギリシャ神話のオデュッセウスのラテン語名が英語化したものだ。中学校の英語の教科書にオデゥッセウスが妖精カリプソに別れを告げる場面が出てきた。この二枚目の英雄はやたら美女に気に入られて引き止められが、そのうち別れの時が来る。ウォーターハウスは古代の神話や伝説をテーマにした絵をたくさん描いた画家だ。ロンドンに赴任したばかりの頃に「エコーとナルシス」のレプリカを買った。あちこちの国を転々としたが、今でも部屋に飾ってある。