2017年1月3日火曜日

光でできたパイプオルガン 宮沢賢治の詩「告別」

詩を書き、物語を書き、歌も作った宮沢賢治は「告別」という詩を書いている。夕陽の写真を撮ったりすると、雲間から光が差し込む時がある。「レンブラント光線」とも「天使の階段」とも言われるそうだ。この光が差し込む景色をみると、この詩を思い出す。「そらいっぱいの光でできたパイプオルガン」という言葉が結びの行になっている。凄い詩だと思う。

とても長い詩だが、「ひとさえひとにとどまらぬ」という一行はおぼろげな記憶があるので、教科書か何かの抜粋で、昔読んでいるはずだ。若い頃から、この詩人と名前が一字違いなので意識してきた。何度もこの人の詩集を読もうと思っては挫折しているが、2013年に「星めぐりの歌」でこの人に再会してからは好きな作品をぽつぽつと見つけて読んでいる。

この人は農学校の先生をしていた。やがて学校を辞めて、自分の世界に住むことを決意した頃に、世の中に出て行こうとする教え子に贈った言葉でもあり、学校を去るつもりの自分に贈る言葉でもあったのだと思う。世の中に出てからも一人で学び続ける孤独な道に、同じように歩む仲間がいてほしいという祈りのような気持ちが込められている気もする。「その人の仕事が気になる人」、「いろいろ大変でも良い仕事を続けてほしい人」。そういう人たちはわたしの回りにもいる。

宮沢賢治 「告別」


おまへのバスの三連音が

どんなぐあひに鳴ってゐたかを
おそらくおまへはわかってゐまい
その純朴さ希みに充ちたたのしさは
ほとんどおれを草葉のやうに顫はせた
もしもおまへがそれらの音の特性や
立派な無数の順列を
はっきり知って自由にいつでも使へるならば
おまへは辛くてそしてかゞやく天の仕事もするだらう
泰西著名の楽人たちが
幼齢弦や鍵器をとって
すでに一家をなしたがやうに
おまへはそのころ
この国にある皮革の鼓器と
竹でつくった管とをとった
けれどもいまごろちゃうどおまへの年ごろで
おまへの素質と力をもってゐるものは
町と村との一万人のなかになら
おそらく五人はあるだらう
それらのひとのどの人もまたどのひとも
五年のあひだにそれを大抵無くすのだ
生活のためにけづられたり
自分でそれをなくすのだ
すべての才や力や材といふものは
ひとにとゞまるものでない
ひとさへひとにとゞまらぬ
云はなかったが、
おれは四月はもう学校に居ないのだ
恐らく暗くけはしいみちをあるくだらう
そのあとでおまへのいまのちからがにぶり
きれいな音の正しい調子とその明るさを失って
ふたたび回復できないならば
おれはおまへをもう見ない
なぜならおれは
すこしぐらゐの仕事ができて
そいつに腰をかけてるやうな
そんな多数をいちばんいやにおもふのだ
もしもおまへが
よくきいてくれ
ひとりのやさしい娘をおもふやうになるそのとき
おまへに無数の影と光の像があらはれる
おまへはそれを音にするのだ
みんなが町で暮らしたり
一日あそんでゐるときに
おまへはひとりであの石原の草を刈る
そのさびしさでおまへは音をつくるのだ
多くの侮辱や窮乏の
それらを噛んで歌ふのだ
もしも楽器がなかったら
いゝかおまへはおれの弟子なのだ
ちからのかぎり
そらいっぱいの
光でできたパイプオルガンを弾くがいゝ

(「新編宮沢賢治詩集」 天沢退二郎編 新潮文庫)


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