2023年6月28日水曜日

Haruki Murakami をめぐる冒険 (「英国春秋」2023年春号)

               ―「この僕らの住んでいる世界には、いつもとなり合わせに別の世界がある」

(村上春樹著「海辺のカフカ」第37章より

2017年の「騎士団長殺し」以来6年ぶりになる村上春樹氏の新作長編が4月に刊行予定と新聞紙上で報じられた。久々の長編作品ともなれば話題になるのは当然だが、その題名として予告されている「街とその不確かな壁」が小説家デビューからまだ新しい時期に書かれた作品の題名と似ていることが、村上ファンとしてはとても気になるところだ。「風の歌を聴け」が発表された1979年にわたしは学校を終えて社会人になった。それから読み続けて40年ほどの付き合いになる。わたしなりに好きな作品を3つ選ぶとしたら「風の歌を聴け」、「羊をめぐる冒険」、「国境の南、太陽の西」である。この小説家との関わりについて、ロンドンに住んでいた頃の思い出をたどりながらふり返ってみたいと思う。

1987年の「ノルウェイの森」で、村上春樹の小説は社会現象となった。この作品に対しては相反する感情を抱いた記憶がある。扱われている材料はデビュー以来の短編とかぶるものもあって懐かしい感じがするのだが、物語のインパクトがとても強くなっている。わたし自身が若かった頃のあまり楽しくない記憶に無理に向き合わされるような感じがした。他人事ではないように感じて読んでしまう人たちがたくさんいたからベストセラーになったのだろうと思う。読まずにはいられないが、好きな本だと公言するのをためらってしまう点が、太宰治の小説群に対する気持ちに似ている。それまでひっそりと村上春樹の読者であることを得意に思っていた立場からは、この小説家が急に売れっ子作家になってしまったことも少し残念な気がした。次第にこの小説家から少し距離を置くようになった。それから長い時間が過ぎた。50歳を過ぎた頃から、この人の作品群にもう一度興味を持つようになった。仕事で住んだ国々の書店で翻訳された村上作品に出合ったからである。ロンドンでも、サンクトペテルブルクでも、スコピエでも、ビシュケクでもHaruki Murakamiの本は大きな書店の日本の小説コーナーに積まれていた。「Murakamiが好きだ」という知り合いも多かった。「海外で紹介される日本の小説家」として根強い人気があるのは何故だろうと考えるようになった。

「羊をめぐる冒険」などいくつかの長編を例にとれば、村上作品には繰り返されるパターンがある。自分の世界やマイペースで生きることにこだわる主人公がいる。主人公はたいてい地味で目立たないキャラクター設定になっているが、何かしらの強いこだわりを持っている。他者と関わりながら「こちらの世界」で生きていくことに、うまくなじめない主人公は、やがて「ここではない世界」の存在を感じ始める。それがSF的な現実である必要はないだろう。そういう願望や想像力を持っているというだけの話かも知れない。戸惑う主人公の周りで、あちらとこちらの2つの世界で物事はパラレルに進行する。別の世界への「入り口」として古井戸や、深い森や、高速道路の非常階段やらが頻繁に登場する。主人公は「自分は誰なのか?」、「自分はどちらの世界に属しているのか?」などの謎解きを求めて物を探したり、人を探したりする。幽かな世界に浮遊しているものたちをこちら側の世界に誘い出すような形で物語は進行していく。探し求めた人との再会と別離を経て、主人公は自分の属すべき世界を選ぶことにより物語が完結することになる。

村上ワールドを構成する2つの世界は安部公房の小説「砂の女」を連想させる。この小説も海外の書店で見かけることが多かった。突然砂の穴に落ちた主人公はひたすら脱出しようともがく。穴の中で囚人のように砂を掻き出す自分が落ち込んだ非日常の世界と、ついこの間まで自分が所属していた日常の世界についての記憶がパラレルに進行する。映画の「砂の女」でヒロインを演じた若い日の岸田今日子がとても魅力的だった。岡田英次が演じた主人公はたまたま砂丘の穴に落ち込んだことで、それまで気がつかなかった形の自由を手にする。管理社会の中で何かしらの息苦しさは感じながらも、多くの人はそれを選択した主体は自分だと思いながら生きている。安全で快適な暮らしと束縛される息苦しさとを秤にかけて、その加減を選ぶのは自分だからである。このバランスを問い直し、自らの選択によって生きている実感を確かめようとすることは、国境を越えて理解されやすいテーマなのだと思う。

2015年に蜷川幸雄演出による「ハムレット」と「海辺のカフカ」がロンドンのバービカン劇場で上演された。宮沢りえが演じる「海辺のカフカ」のヒロインを観たいと思ったが、チケットは売り切れだった。藤原竜也が主役を演じた「ハムレット」のマチネのチケットが取れた。「蜷川版ハムレット」はその17年前の1998年にも真田広之と松たか子が演じた舞台をロンドンで観ている。この時の母親役が加賀まりこだった。その役を鳳蘭が演じた。1998年当時、ロンドンに在住だった野田秀樹が前の列に座っていたことを記憶している。白石加代子との共演で藤原竜也が1997年に演じた「身毒丸」を観ている。いずれも1999年から途上国暮らしを始めるまでロンドンに住んでいた頃の思い出である。上演当日になって諦めていた「海辺のカフカ」のチケットが入手できた。劇場に早めについてカフェで軽く食べて、外の空気を吸っていると遠くの方で藤原竜也が煙草を吸っているのが見えた。

蜷川版の「海辺のカフカ」には感動した。舞台装置がすごい。高松の図書館がメインの場所ということもあってか、全体を通じてガラスの書棚のようなミニ・ステージが用意され、役者たちはその中から飛び出して、演技する。いくつもあるミニ・ステージの下に車輪がついていて、人力で動かす仕掛けになっていた。図書館というよりは博物館のガラスの箱だ。臨時の大英博物館の世界を作り出したような印象を受けた。物語の中で高松に向かうトラックすらこのガラスの箱に入っているのでびっくりした。さらに凄いのはヒロインの若い日と現在の佐伯さんを演じた宮沢りえがやはりガラスの箱につめられて、冒頭から舞台上の空間を彷徨うことだ。これは白日夢の世界だった。私の席は左端で舞台からすぐの4列目だった。ガラスの箱の中から一点を凝視する宮沢りえと目が合うような錯覚を覚えた。

原作である小説「海辺のカフカ」はとても長い作品だ。作中人物の台詞の形をとりながら源氏物語やら、雨月物語やらについての論考が混じるややこしい小説である。この作品の中に「夢」と「想像力」についての様々な解釈が登場してくる。この小説には佐伯さんという中年の女性とナカタさんという初老の男性が登場する。どちらも謎めいた人物設定である。この2人の「奇妙であいまいな人たち」が幼い頃に母親と生き別れになって育った主人公のカフカ少年と関わりを持つことになる。佐伯さんが主人公の母親なのかどうかの謎解きが物語の鍵でもある。ヒロインが中年の佐伯さんでもあり、15歳の少女でもあり、主人公の母かも知れないこの物語は複雑な仕掛けでできている。

内田樹氏の「もういちど村上春樹にご用心」(文春文庫)は村上ファンに強くお勧めしたい本である。この本の中の「境界線と死者たちと狐のこと」という文章には説得力がある。同氏は「村上春樹はその小説の最初から最後まで、死者が生者の生き方を支配することについて、ただそれだけを書き続けてきた。。。。それが村上文学の純度を高め、それが彼の文学の世界性を担保している。」として、村上春樹を「雨月物語」の上田秋成の後継者として論じている。「海辺のカフカ」の中でも「雨月物語」の「菊花の約」が引用されている。佐伯さんが学生運動に巻き込まれて死んだ恋人を想い続ける姿は「浅茅が宿」を連想させる。内田氏によれば「行き場を失った夢は境界を超えて現実に侵入してくる」のである。その「夢」に登場する人物たちが「霊的に存在するもの」なのか、「幻想にすぎないもの」なのかは、どちらであろうと夢に影響を受けている者にとっては大きな違いはない。

ナカタさんという猫語を理解する登場人物も不思議な人である。幼い頃に森の奥でUFOのような存在に出会い、その時のショックでとっくに死んでいてもよさそうなナカタさんは、たまたま二つの世界を隔てる通路から迷い出て、こちらの世界で生きている。殺されかけた知合いの猫たちを守ることと、主人公の少年が無意識に父親に抱いたのかも知れない殺意をあたかも吸収するかのようにして、少年の父親を殺してしまう。もう一つナカタさんが果たす役割は、主人公の少年に別の世界への通路を示すことだ。ナカタさんがいろいろ不思議な力を持っていることも、この人がこちら側の世界に迷いこんできた「不完全な死者」であり、霊的な存在であると考えてみれば納得できる。

この小説の中に「源氏物語」の六条御息所の話が引用されている。これは人間の想念が生霊となって人を取り殺す話である。六条御息所のエネルギーが夢魔となって本人が意識しないまま行動してしまうが、我に返った本人にはその行動の自覚がなく、それを知った後ではその怖しい行動に愕然とする。「海辺のカフカ」の中では、母を失った原因として漠然と父を憎んでいた少年の想いが、どこかでナカタさんに伝わり、ナカタさんが殺人の実行犯になる。少年はその犯罪の計画にも実行にも関わってはいない。人間でないものたちと会話することも、遠く離れた少年の想念をわがものとすることも「人間ではないナカタさん」なら可能だ。

「こちらの世界」と「あちらの世界」で引き裂かれそうになり、自分を喪失しかねない不安定な主人公を描く村上春樹の物語には、主人公をこの世界に引き留めようとする者たちが必ず登場する。村上作品の読者にとっては「海辺のカフカ」のさくらさんはなじみのあるキャラクターだ。途方にくれた少年をさくらさんが「好きだからに決まってるでしょ」と迎える場面は「ノルウェイの森」で「不完全な死者」たちとの交流で消耗しきった主人公を優しく迎えた緑さんの言葉と同じものだ。「ノルウェイの森」のヒロイン直子も「不完全な死者」そのものなので、この本の佐伯さんのイメージに重なるところがある。佐伯さんの友人である大島さんは直子の友人であるレイコさんのイメージに良く似ている。2002年の「海辺のカフカ」は1987年の「ノルウェイの森」の変奏バージョンとも言えなくもない。

「海辺のカフカ」はギリシャ悲劇「オイディプス王」の物語を下敷きにはしているが、それが夢についての物語であることを強調することで、「父を殺して、その妃を妻にする」という悲劇の核心については、「そうかも知れないが、そうでないかも知れない」 不可知の物語としている。口惜しいとは思ったにしても殺したいとまでは意識しないまま生霊となった六条の御息所の罪は問われるべきなのか? 夢とも現実ともつかない空間でナカタという「不完全な死者」が父親を殺す。その不思議な現象を引き起こしたのがカフカ少年の混沌とした憎悪だったとしたら、その罪は問われるべきなのか?バービカンの客席は日本人よりも現地の人でいっぱいで、上演が終わった時も満場の拍手だった。

「海辺のカフカ」の主人公であるカフカという少年の名前が興味深い。カフカというのはチェコ語でカラスのことを意味する。小説の中では「不条理の波打ちぎわをさまよっている一人ぼっちの魂。たぶんそれがカフカという言葉の意味するものだ」という種明かしがなされている。「カラスと呼ばれる少年」が物語の中に幾度か登場して、主人公に語りかける影のように存在している。人間がカラスに変身する物語として太宰治の「お伽草紙」(新潮文庫)の中に「竹青」という作品があることを思い出した。中国の古典「聊斎志異」の中の原作を材料にして太宰が翻案している。神の使いである竹青が現れて、主人公を神に仕えるカラスに変身させる物語である。チェコの作家フランツ・カフカを意識して題名がつけられたであろう「海辺のカフカ」の世界が、どこかで中国の古典の世界観ともつながっているような気がして面白い。

浮遊する霊的な存在を描き、鎮魂の物語を書いたのは村上春樹だけではない。日本に住みついて小泉八雲と名乗ったラフカディオ・ハーンも同じように霊魂にこだわった作品を書いている。この人がアメリカで新聞記者をしていた時代に日本の文化と出会ったことについてはNHKでドラマ化された物語が印象的である。ハーン先生はニューオリンズでの博覧会のために訪米していた日本の外交官たちから古事記のイザナギ・イザナミの物語を教えてもらい感動する。自分の出自であるギリシャの神話であるオルフェウスの物語との共通点を見出したことが日本に対する興味の原点となる。大切なものを喪失し、嘆き悲しんだ後で時間や世界を超えて再会する物語は世界の各地に存在しているようだ。突然異界に去る形で失われた肉親や友人や恋人と再会し、きちんとした服喪の儀礼をして死者の国に送り直す。それは世界中のどこでも共感されやすい主題なのだろう。

2021年の夏に公開された濱口竜介監督による映画「ドライブ・マイ・カー(Drive My Car)」は村上春樹の原作を映画化したものである。この映画はカンヌ国際映画祭で脚本賞、アカデミー賞では国際長編映画賞を受賞するなど国際的にも高い評価を受けた。「きちんとした服喪の儀礼をして」死者をその属すべき国に送り直す物語が、この映画でとても丁寧に描かれている。濱口監督の手でムラカミワールドがほぼ完全に映像化されていて感銘を受けた。





2018年2月6日火曜日

森内俊雄「骨の火」

20代の頃に「朝までに」という短編集を読んで以来気になっていた人の名前を最近の新聞朝刊の広告欄で名前を見つけた。80代を迎えて自伝的連作集を出されたことが気になり、その新作と一緒にいくつかAmazonで取り寄せて読んでみた中の一冊。一読して仰天。キリスト教の神をテーマにしたとても抑えたトーンの語り口ながら扱っている素材が生々しい。はてさてと感想を書くことを逡巡してみたものの、車谷長吉氏の出世作「赤目四十八瀧心中未遂」にしても、吉村萬壱氏の近作「臣女」、「回遊人」にしてもそういう道具立てを使うことは珍しいことではない。村上春樹氏の「ノルウェイの森」、「国境の南、太陽の西」にしても際どい場面は存在する。
 
さてそのくらいの言い訳を用意した後でこの本を読み返してみると、用意周到な構図をもとに設計された物語になっている。4つくらいの事件が起きる。最初の事件は学校時代。まだ幼い主人公は、不注意から級友を怪我させてしまうが、その責任について告白するタイミングを失してしまうことから悩みが始まる。罪を犯し、秘密を持ったことによって親の保護の世界から飛び出してしまうことで子供時代が終焉する。似たような話を読んだ記憶がある。ヘルマン・ヘッセの「デミアン」の第1章「二つの世界」の中に登場する挿話とほぼ共通だ。
 
第2と第3の事件は連続して起こる。一つは青春期を迎えた主人公が魅力的な夫人に溺れてしまう。悲劇が起こるのはその混乱の中にある青年を霊的な高みに導くべき存在として現れる女性がその夫人の義理の娘さんだったこと。あれっと? これも何だかありそうな話で、映画「卒業」でもダスティン・ホフマン演じた青年が悩む場面だ。信仰の世界を模索しながら作品を書いてきた人としては欲望と聖なるものへの憧れの対立を描かざるを得ないのかも知れないが、かなり作為的な対立構図だ。
 
第4は以上の1-3の3つの傷を負った主人公が、罪の意識から立ち直ることができないまま受動的に生きていると、救い主のような女性が登場して結婚生活が始まる。これでハッピーエンドになればこの小説はもう少し読後感が明るいはずだ。この主人公の過去の罪を許さない存在としての犠牲者の父が登場する。この父の存在がなければほとんど村上氏の「ノルウェイの森」のエンディングに近い。復讐者は中年を迎えた主人公をじわじわ精神の危機へと追い詰めていく。
 
粗っぽい言い方をすればさまざまな小説で描かれているような「よくある事件」に遭遇し、不注意からか巡り合わせからか加害者に「転落した」主人公が、自らの罪の意識に向き合う話ということになりそうだ。罪としての体験を際立たせるための道具立てが激しくてびっくりするが、それだけにはとどまらず深い印象が残る。
 
 
 

2018年1月24日水曜日

伊集院静「白秋」 

先日の教室の帰りにH先生と同道させていただく機会があり、様々な話を聞かせていただいた。由比ガ浜通りにある伊集院氏と所縁のあるK寿司の話題に及んだ。「「いねむり先生」など好きな作品はいくつかありますが、あまり数は読んでいません」という話をすると、「鎌倉を舞台にした小説がありますよ」と教えていただいた。アマゾンでポチると講談社文庫版が届いたので読んでみた。鎌倉の名所と季節ごとの花々がこれでもかと登場する。鎌倉散策案内としても読めそうだ。
阿木燿子さんの「名園のような小説」という随筆がついていて「鎌倉を舞台にしたこの作品は、古都の自然を借景に取り入れた名園のようだ」と絶賛されている。それはその通りなのだが、奇妙な物語でもある。主人公の男性が若い娘さんに恋をする物語だが、分量としては主人公を介護をする女性についての描写が多いだけでなく、とても魅力的でもある。ふーむと思案していると題名に意味がありそうだと気がついた。「白秋」というのは冴え冴えとした古都の秋かと思っていたが、これは違うらしい。青春、朱夏、白秋、玄冬という言葉があって人生の中盤以降でまだ枯れる前の時期を示すものらしい。
若い二人の純粋な恋は、作品中に登場する四季の草花のように美しいのだが、それでは何故この題名なのか?ヒントらしきものが著者あとがきに登場する。著者が出版社から恋愛小説を依頼され構想を練っていた時のことが紹介されている。鎌倉の山道で見かけた白い着物の老婦人と若者の二人連れ、K寿司らしい店で小耳にはさんだ危な絵のことをモチーフにし、変奏を加えてこの物語が書かれたそうだ。いくつもの夢が登場すること、登場する3人が、それぞれいつの間にか感情の強まりを制御できなくなること、やがて幻なのか現なのかの境目があいまいになってしまうこと。六条御息所の物語を連想した。

2018年1月15日月曜日

渋澤龍彦「毒薬の手帳」

今週のニュースでマンドラゴラの花の開花について報道されていた。まず金沢の読書家の友人から流れてきた。その翌日にTVで丁寧な解説番組の放映を観た。昨年12月に渋澤氏の「ドラコニアの地平」という没後30周年の回顧展が開催されたばかり。展覧会のカタログ巻末に登場するのは星月写真企画。現在お世話になっている鎌倉風景写真講座の社名だ。マンドラゴラは薬草でもあり、毒草でもある。それ自体ではどちらとも言えず、他者との関係で毒になったり、薬になったりするのは人間の関係に似ている。

昔の本棚にあった渋澤龍彦集成からの2巻は平均で3年に一度は引っ越した生活の中でとっくに処分してしまった。近所の書店で確認してみると河出文庫に山のように渋澤本が並んでいる。文庫本には「没後30周年フェア 奇才はよみがえる」とある。「毒薬の手帳」を手にとってみると第3章が「マンドラゴラの幻想」。ぱらぱらと第9章にあたる「毒草園から近代科学へ」を開いていると、露のソログープが米のホーソーンの「ラパチーニの娘」の変奏物語を書いていたことが書いてあった。


1986年の夏の研修中に「若いグッドマン・ブラウン」を読んだことが気になっていて、20年以上経ってからホーソーン短編集を読んだのがわたしの「ラパチーニの娘」との出会いだ。学生時代に高橋たか子氏を愛読していたので、この人のエッセイ集に出て来る澁澤本にも興味を持っていた。そういう風に積んでおいた記憶の中の本がいろいろつながった。

2018年1月12日金曜日

向田邦子「手袋をさがす」

年の瀬の夕方に真名瀬まで出かけた。葉山の漁港だが鎌倉からは車ですぐなので時折り出かけている。12月から2月頃までお天気が良くて風が収まった日には空気が澄んでいる。稲村ケ崎と並ぶ富士山撮りの名所だ。浜辺で撮影しているのは1時間足らずだが、防寒用の衣類を着こみ、ほかほかカイロを懐中に入れても芯まで冷えてくる。この時期の日の入りは4時半過ぎで、車で家路に向かうのは6時少し前だが真っ暗だ。凍えている手でハンドルを握りながらFMラジオを聴いていた。静かな声で「手袋をさがす」という随筆の朗読だった。オリジナルの文章を探してみると講談社文庫の向田邦子「夜中の薔薇」というエッセイ集の中に収録されている。1981年に51歳で飛行機事故で亡くなられた向田さんが、ご逝去の年の5年前に書いた文章だ。アマゾンで取り寄せて読んでみた。

学校を卒業したばかりの向田さんは初めての職場で「ただ漠然と、今のままではいやだ、何かしっくりしない」と感じて腹を立てていた。物の乏しい時代の冬は厳しかったそうだが、向田さんは、どんなに寒い日が続いても、気に入るのが見つからずに手袋無しですましていた。ある日残業をしていると、目をかけてくれた上司が「ひょっとしたら手袋だけの問題ではないのかも知れないねえ」とやんわり意見してくれた。そんなことをしていたら風邪をひいてしまうよという指摘は、そんな生き方をしていたら後悔するよという趣旨のお説教だったらしい。ここまでは職場のお節介オジサンが登場する普通の話だが、向田さんはその帰路に四谷から渋谷まで、寒空の下を歩き通して結論を出してしまう。翌日から求人欄の仕事探しを始め、その後仕事を転々としながら文筆で生計を立てるにいたる。

同じような気持ちで転職をし、それを繰り返した人がすべて成功したはずもない。若い頃を振り返った結果ありきのエピソードと割り引く必要もありそうだが、たまたま凍えた夜にFM放送で流れてきた物語だったのでしみじみと感じ入った。凍てつく寒さと題名から愛知県半田市出身の新見南吉が書いた「手袋を買いに」という童話を連想した。

「母ちゃん、お星さまは、あんな低いところにも落ちてるのねえ」とききました。
「あれはお星さまじゃないのよ」と言って、その時母さん狐の足はすくんでしまいました。「あれは町の灯なんだよ」

雪が降った山で、寒さに凍える子ぎつねの手を温めたいと願うことは親子に共通だ。母ぎつねにとって人間の住む町は怖ろしいところで、子ぎつねにとってはキラキラした星々が低く輝いている場所だ。町に降りたきつねは殺されてしまうこともあるだろうし、物語の世界で人の心に生き続けることもあるかも知れない。人生いろいろだ。何が正解で、何が失敗かなんて誰にも分らないことが多い。向田さんのドラマシリーズは大好きでDVDも持っている。もう読んだような気がしてしまい、これまで文章で読んだことがなかった。きちんと読んでみたくなった。