2016年9月5日月曜日

イワン・ブーニン 「パリで」とアントン・チェーホフ「犬を連れた奥さん」

10歳違いのアントン・チェーホフとイワン・ブーニンがお互いを尊敬していたことは知られている。40代でチェーホフは早逝し、亡命し60代半ばでノーベル賞を受賞したブーニンは80代まで生きた。ブーニンの死後に未完原稿として「チェーホフのこと」という評論が刊行されている。ブーニンが70代で書いた「暗い並木道」という短編集は鬼気迫る傑作だ。ほとんどの短編に濃厚な死のイメージがあるのは自らの死が迫っていることを自覚してのものだろう。鮮烈で奔放な性のイメージがちらつくのは死の訪れを意識した老人が若い日の恋を回想しているように思われる。いくつも心に残る作品がある中で「パリで」という作品は特に印象が強い。

この作品の主人公はブーニンと同じく革命後にパリに亡命したロシア人で、この短編集の中でも特に小説家自身に近いと思わせる作品だ。さらに面白いのは皮肉たっぷりの短い警句を発する主人公のイメージがチェーホフの中篇としてはおそらく最高傑作である「犬を連れた奥さん」の主人公のイメージと重なる点だ。こちらは映画化されDVDにもなっている。避暑に訪れたヤルタの街で出会った若いヒロインに恋をしてしまう家庭人の主人公は、これまでも何度も火遊びを経験した女性崇拝者でありながら「女は下等な生き物」で困った存在だと考えている。本人のほうがよっぽど困った人だ。

「パリで」の冒頭でこちらの主人公も「美味しいメロンとまっとうな女を見分けるほど難しいことはない」という考え方の持ち主だ。妻に逃げられたことが今でも傷になっているという設定のこの主人公は女性に偏見を持っている。たまたま入ったパリのレストランでウェートレスをしているやはり亡命ロシア人のヒロインに出会う。このヒロインが親切に水差しをテーブルに置くと 「荷車が道をいため、女性が心を傷つけるように、水は酒を台無しにする」 という警句でヒロインを呆れさせる。そんな風に女性一般について悪口を言っておきながら、このヒロイン目当てにこの店に通ってくる。この主人公の人物設定は「犬をつれた奥さん」の主人公にそっくりだ。

ブーニンもチェーホフも中央アジアのロシア語圏で勤務していた頃に熱読した作家だったが、2011年にこの地域を離れてから自然と距離ができていた。昨日突然「パリで」の記憶がよみがえってきたのは、帰省から戻る新幹線の待ち時間に長岡で日本酒の店に立ち寄ったのきっかけだった。米どころの地酒が自慢のこの店では酒を味わう合間にチェイサーとして水を飲むことを勧めている。あちらの世界でブーニンがこれを知ったらびっくりしそうだ。




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