2015年9月21日月曜日

夏目漱石「カーライル博物館」 チェルシーにある博物館を訪れた

チェルシーはテムズ川の北岸にあり、ロンドンの繁華街ケンジントンやナイツブリッジにも歩いて行けるお洒落な街だ。2011年の暮れに2回目のロンドン勤務を始めた時に地下鉄スローン・スクウェア駅やキングス通りの近くの短期滞在用フラットに2か月ほど住んだ。その時に行きそびれていたカーライル博物館を訪ねてみた。1901年から1902年までロンドンに留学していた夏目漱石がこの博物館を友人で味の素を発明した科学者として知られている池田菊苗博士と共に訪れたことを随筆に書いている。青空文庫に入っているので簡単に読むことができる。

「カーライルの家」というナショナル・トラスト作成のパンフレットを売っていた。1795年生まれのトマス・カーライルは19世紀のヴィクトリア時代の英国を代表する歴史家・評論家だったそうで、このパンフレットにはディケンズ、サッカレーなどがカーライルを讃えた言葉が引用されている。夏目漱石の訪問のことは記載されていない。「何か漱石関係の展示物はないでしょうか?」と博物館の案内の人に聞いてみた。案内の婦人は笑顔になり、引出しの中から手製のクリア・ファイルを取り出して見せてくれた。同じような質問をする日本人のビジターには慣れている様子だ。このファイルは漱石のカーライル博物館訪問に関しての日本の新聞に掲載された記事のコピーなどを一冊にまとめたものだ。後ろから「知らなかったわ」と日本語の声がした。観光客らしい二人組のご婦人だった。


この漱石関係ファイルを手に取って眺めるとカーライルと日本の関係についてまとめた論文のコピーがあった。それによると「フランス革命史」他の著作のあるカーライルは、数年がかりで仕上げた草稿を友人に批評してもらう目的で貸し出したところ、手違いで紙屑として焼かれてしまう。さすがに落胆するが、やがて気を取り直してもう一度原稿を書き上げた不屈の人として日本に紹介されて有名だったとある。このエピソードが中村正直がサミュエル・ジョンソンのオリジナルを和訳した「西国立志篇」に紹介されているそうだ。この本は1870年に出版されて福沢諭吉の「学問のすすめ」と同じように明治時代のベストセラーになっている。


ウェブサイトをチェックすると内村鑑三が1898年(明治30年)に書いた「後世への最大遺物」の中でも上記のエピソードが紹介されているが、誰が間違えて草稿を燃やしてしまったのかについての詳細がやや異なっている。「カーライルのエライことは『革命史』という本のためにではなくして、火にて焼かれたものをふたたび書き直したということである。もしあるいはその本が遺っておらずとも、彼は実に後世への非常の遺物を遺したのであります。たといわれわれがイクラやりそこなってもイクラ不運にあっても、そのときに力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起してふたたびそれに取りかからなければならぬ、という心を起してくれたことについて、カーライルは非常な遺物を遺してくれた人ではないか。」 (内村鑑三「後世への最大遺物」 、青空文庫より抜粋)



この博物館はアルバート橋のすぐ側にある。「このほかにエリオットのおった家とロセッチの住んだ邸がすぐ傍の川端に向いた通りにある。しかしこれらは皆すでに代がかわって現に人が這入っているから見物は出来ぬ。ただカーライルの旧ろのみは六ペンスを払えば何人でもまた何時でも随意に観覧が出来る。” “チェイン・ローは河岸端の往来を南に折れる小路でカーライルの家はその右側の中頃に在る。番地は二十四番地だ。」  (青空文庫より抜粋)


「毎日のように川隔てて霧の中にチェルシーを眺めた余はある朝ついに橋を渡ってその有名なる庵りを叩いた。」  (青空文庫より抜粋)

「余は東側の窓から首を出してちょっと近所を見渡した。眼の下に十坪ほどの庭がある。右も左もまた向うも石の高塀で仕切られてその形はやはり四角である。四角はどこまでもこの家の附属物かと思う。カーライルの顔は決して四角ではなかった。彼はむしろ懸崖の中途が陥落して草原の上に伏しかかったような容貌であった。」  (青空文庫より抜粋)







オスカー・ワイルドの家 童話「星の子」

小さい子供の頃に絵本や挿絵入りの童話を手当り次第に読むのが好きだった。たいていは絵に興味を持ち、それから物語に引き込まれていったと思う。「星の子」という絵本を読んだことがとても強く印象に残っていた。貧乏な夫婦に生まれたとても可愛らしい子供の話だ。まわりにちやほやされて育った子供はやがてわがままな人間に育ち、親をないがしろにする。その罰が当たったのかその子供の境遇は暗転する。宿無しとなり、あちらこちらを苦労しながら彷徨うことになる。最後に別れた両親にめぐりあってこれまでの不孝を詫びると幸せな結末がやってくる話だったと記憶している。オスカー・ワイルドという英国の作家の物語だと大人になってから知った。

この人は結婚もし、子供もいたが、ゲイの趣味もあったそうだ。この作家が生きていた時代には違法行為だったので裁判にかけられて牢獄暮らしを経験している。その色彩に満ちた人生は映画にもなった。子煩悩だったらしく、自分の子供たちに語って聴かせるための童話を自分で書いた。学校の教科書で読んだ「幸福の王子」もこの人が書いている。ロンドンを去る日も近くなってきたのでチェルシーにあるオスカー・ワイルドが住んだ家を訪ねてきた。テムズ川の北側の川岸の通りからすぐで、チェルシー橋とアルバート橋の中間くらいのところにタイトストリートという通りがある。その34番地。公開はされていないので外から眺めてきた。





2015年9月4日金曜日

イワン・ブーニン作品集「暗い並木道」の思い出

小説家イワン・ブーニンは詩人として活動を始め、チェーホフと親しくし、ロシア革命後はフランスに亡命して1953年にパリで客死した。2014年3月に11年ぶりに群像社のイワン・ブーニン作品集の続刊が出た。作品集の第1巻「村・スホドール」が刊行され、「アントーノフカの林檎」が入っているのがうれしい。2003年に3巻と5巻が出たきり、そのままになっていたものだ。この作品集の完結を待ち望み、群像社の他の本を買っては、読者カードを送って、この作品集の完結予定を問い合わせてきたのでうれしかった。残り2巻の刊行を待ち望んでいる。また10年待つのだろうか?

わたしのブーニン体験はマケドニアで始まっている。中央アジアのタシケントからバルカン半島のスコピエに引っ越して、習いたてのロシア語を忘れたくなくて先生を探した。ペテルブルグ出身の先生を見つけたので、週末にお宅でお茶を飲みながらのレッスンを受けた。先生はすぐにこの生徒が教科書を使った授業に関心がないことを理解したらしい。ある日、先生が数枚のプリントを用意してくれた。ブーニンの「カフカス」だった。とても初歩の露語学習者に歯が立つような文章ではない。一語一語確認しながらの奇妙な授業がしばらく続いた。最初は無茶かなと思ったが、不思議な緊迫感と色彩のある文章がとても好きになった。この逐語訳体験は詩人出身のこの作家を理解するのに役に立ったと思う。お茶を飲みながらロシアの歌曲であるロマンスの話をするのが好きな先生が、何故その掌編を選んでくれたのかにも興味があった。

マケドニアからキルギスに転勤した後の2008年の夏休みを語学研修のためにペテルブルグで過ごした。本屋めぐりをした時にブーニンのMP3のオーディオ本を探した。ビシュケクに戻ると「暗い並木道」所収作品の中から会話の多いものを数編選び、和訳本と対比して意味を理解しながら、朗読を聴いた。懐かしい思い出だ。「暗い並木道」は鬼気迫るほどの結晶度を誇る短編集で、さすがは欧米の読者を魅了してノーベル賞をもらった作家の作品とうならせるものがある。わたしが好きなのは群像社の作品集第3巻に収録されている「ナタリー」、「パリで」、「暗い並木道」だ。「ルーシャ」も良い。若者が主人公だったり、若い娘が主人公だったり、初老の作家が主人公だったり、年配の婦人が主人公であったり話はいろいろだ。傷ついたり、傷つけられたりといった短編と中編が延々と繰り返される。宝石のような透明感がこの作品集の魅力だ。

「暗い並木道」のテーマは愛と死に集中している。旧ソ連圏では教科書にも採用された。中央アジアのビシュケクで働いていた頃に、ある食卓でブーニンの作品が好きだと言う話をしたことがある。相手はわたしより少し若い40代の人だった。「旧ソ連の時代は検閲が厳しくてね。ブーニンの小説は色恋の描写が楽しみだったよ」というコメントが帰ってきた。なるほどそういう読み方もありそうだ。米原万里さんが「打ちのめされるようなすごい本」(文春文庫)の中で「暗い並木道」(1998年1月、原卓也訳)のことを「急いで読むのがもったいないような玉露のような文章だ」と激賞している。米原さんはブーニンの作品に二度出会ったそうだ。最初は若い頃に原文で読んで「男の身勝手さに腹を立て恋に臆病になった」そうだ。2度目に原卓也訳を読んで「かけがえのない一瞬一瞬への懺悔録と感じた」とある。主人公の男のロマンチックな感情の対象となる女性像が限られていて「感情移入できないので鬱屈がたまる」とも書いている。

ブーニン作品集の第5巻に「チェーホフのこと」という評伝がある。中部ロシアのヴォローネジに生まれたブーニンは20代で新進の詩人として注目されるようになった。その後ペテルブルグ、モスクワに移り住んで、先輩作家たちから学ぼうとする。すでにその頃は高名な作家だったチェーホフが若いブーニンの才能を評価し、二人は仲が良かったそうだ。パリに亡命していたブーニンがノーベル賞を受賞したのは81年前のことで、ロシア人の小説家で初の快挙だった。ロシアの新聞は「ノーベル賞が革命の敵に授与されたのは遺憾である」と報じた。やがてスターリンの死により雪解けの時代が始まると、ブーニンの古い時代をしのぶ抒情的な作品はロシアでの出版が許され、人気作家となった。それでもロシア革命を直截に批判した「呪われた日々」などはペレストロイカの頃まで解禁されなかったそうだ。