2017年9月3日日曜日

鷗外訳アンデルセン「即興詩人」と吉井勇「ゴンドラの唄」について

黒澤明監督の映画「生きる」(1952年)で、志村喬演じる死期の迫った主人公がブランコに乗りながら「ゴンドラの唄」を歌う場面はよく知られている。黒澤監督とビートルズを敬愛する五藤利弘監督の映画「愛こそはすべて」(2013年)の中にもブランコの場面が出て来る。「ゆめのかよいじ」(2012年)を筆頭に故郷である栃尾(長岡市)を舞台にした抒情的な作品が多い五藤監督にしては珍しく、色っぽい場面が多い作品だ。

「ゴンドラの唄」は大正4年(1915年)に浪漫派の歌人吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲している。大正4年(1915年)に吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲したこの歌は、芸術座のイタリアを舞台にした物語で女優松井須磨子が歌って流行したそうだ。吉井勇の歌詞についてはこれまで大きく2説がある。一つは童話で有名なアンデルセン(デンマーク)が1834年に書いた出世作「即興詩人」の森鷗外訳(明治35年出版)を読んだ吉井勇が、その本の中に出てくるヴェネチアの里謡からインスピレーションを受けて作詞したという説だ。

もう一つはイタリア在住の作家塩野七生氏が1987年の「わが友マキアヴェッリ」で指摘して以降広く知られている説で、イタリアの「バッカスの歌」をイタリア旅行をした上田敏か誰かが日本に持ち帰り、それが吉井勇に伝わったのではないかという推理だ。塩野氏は「バッカスの歌」の最初の部分が、「ゴンドラの唄」の1番にそっくりであることに注目している。ところが2番以降の歌詞が「バッカスの歌」とかなり違うので疑問が残る。新潮文庫の塩野七生著「わが友マキアヴェッリ」で確認してみると、第四章「花の都フィレンツェ」に吉井勇の「ゴンドラの唄」についての記述がある。ここで塩野氏はロレンツォ・ド・メディチの書いた「バッカスの歌」という詩を紹介している。

     「青春とは、なんと美しいものか
    とはいえ、みるまに過ぎ去ってしまう
    愉しみたい者は、さあ、すぐに
    たしかな明日は、ないのだから」

塩野氏はこの詩を紹介した後で、「以前からいだいていた想像を披露してみる気になった」そうで、その推理の根拠としてロレンツォの詩が、「フィレンツェにとどまらずにヴぇネツィアでも大流行し、謝肉祭中は欠かせない歌になっていたという事実」を指摘している。そしてロレンツォの詩と吉井勇の「ゴンドラの唄」の一番を比較する。

         「 いのち短し 恋せよ乙女
    紅きくちびる あせぬまに
    熱き血潮の 冷めぬまに
    明日の月日はないものを」

 塩野氏が「大意ならば、同じではないか」と指摘しているように、「バッカスの歌」と「ゴンドラの唄」の細部は明らかに異なっている点が気になる。塩野氏は吉井勇の歌詞を誉めて「ロレンツォだって、この日本語訳を知れば、感心するのではないかと思う。」として、二つの歌の違いは吉井勇の意訳の結果だと説明する。また「吉井勇の完全な創作かもしれない」とも付け加えている。


岩波文庫のアンデルセン原作、森鷗外訳「即興詩人」を読んでみるとヴェネチアに向かう舟の上で、船頭の若者の歌を聴く場面がある。この章のタイトルが「妄想」であるのが面白い。「其辞にいはく、朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす」。「ゴンドラの唄」の1番はこの鷗外訳の内容と一致し、とても格調が高い。

鷗外の名訳でこの歌はさらに続く。2番の歌詞は「いざ手をとりて彼の舟に」と娘を舟に誘い、3番の歌詞は「ここには人目も無いものを」と娘を誘惑する。アンデルセンは、この地元の歌について「まことに此歌は其辞卑猥にして其意放縦なり。さるを我はこれを聞きて挽歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壮の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を発せしむるに及ばざりき」と書いている。無常観に満ちた名訳だ。酒と恋と歌を愛した浪漫派の吉井勇がこの本を読んで感激したであろうことは想像に難くない。

 塩野氏がもしも森鷗外訳のアンデルセン「即興詩人」を読んでいたならば「吉井勇の完全な創作かもしれない」という文章はありえないだろう。鷗外訳の「即興詩人」の中の表現と吉井勇の「ゴンドラの唄」は1番から3番までを通じて、ほぼ同じ内容になっている。塩野氏は「大正時代に流行ったというこの歌を、私がはじめて知ったのは、黒沢明監督の「生きる」を観た時だった。」 と書いている。塩野氏は映画を観て知った「ゴンドラの唄」と「バッカスの歌」の大意が似ているので、「自分はそのような想像をいだいていた」と書いているにすぎない。それが確固たる「塩野説」として広まったようだ。