2015年2月25日水曜日

開高健 「小説家のメニュー」とアメリカ東海岸の貝の話

しばらく前に友人のN氏がアメリカ東海岸に出張し、ニューヨーク名物のグランド・セントラル駅のオイスター・バーで牡蠣やらチェリー・ストーンを食べた写真をFBに投稿していて懐かしかった。1980年代の中頃に2年ほどフィラデルフィアに住んでいたので、時々ニュ-ヨークを訪れている。冬のアメリカ東海岸は寒さが厳しいので、熱々のニュー・イングランド・クラム・チャウダーは格別に美味しい。四半世紀も経ってからクラム・チャウダーの本場ボストンを訪れたのは2013年の晩秋だが、レストランでまず頼んだのもこれだった。冬になるとロンドンの近所のブラッセリ―でもメニューに出て来る。

チェリー・ストーンという貝は開高健の「小説家のメニュー」にも出てくる。ニューヨークで小ぶりのチェリー・ストーンという貝を生のまま、レモンとタバスコとケチャップを少しつけて食べた感想を「なかなかに小味の、粋なものである」と書いている。さらに「アサリの親分」のようなスチーマーズという貝を茹でたものがバケツのような大きな器に盛られて出てくるのを、スープと少々のメルティッド・バターにつけて食べる話も書いている。これで白ワインを飲むと最高だろう。

英語圏では生食したり、茹でたり、クラム・チャウダーに入れたりする二枚貝はクラムと総称される。さらに細分化された分類で、日本のハマグリ(約8㎝)・アサリ(約4㎝)のグループに相当するのがマルスダレ貝目マルスダレ貝科のチェリー・ストーンだ。日本語でホンビノス貝(通称「しろはまぐり」)と呼ばれるこの貝は約2.5㎝から12㎝までの成長過程で、「リトルネック」、「チェリー・ストーン」、「トップネック」、「チャウダー」と名前が変わる。日本でも出世魚がワカシ、イナダ、ワラサを経てブリと成長するのと同じで面白い。この貝は20世紀の終わり頃から、千葉県幕張の浜でも採れるようになった。もともとは北米東海岸のものが、船底にへばりついて太平洋を渡り、幕張の浜辺に生育するようになったそうだ。

開高健は「小説家のメニュー」の他にも「最後の晩餐」、「食卓は笑う」など食のエッセイ本を何冊も書いている。この人は終戦の頃に父親が亡くなり、学生でありながら家族を支えた戦後の大阪でひどい半飢餓状態を経験したそうだ。この当時の話が、日本文学大賞を受賞した「破れた繭 耳の物語」などいくつもの作品に書かれている。やがて戦後の食糧事情が好転しても、食に対するこだわりはトラウマとなり、直らなかった様子が、盟友ともいうべき谷沢永一の書いた「回想 開高健」の中に詳しく出てくる。わたしの手元に開高健記念会が刊行した「Portrait de Kaiko 開高健」という写真集があるが、半飢餓時代の開高青年と、中年以降のこの小説家のポートレートを見比べると複雑な気持ちになる。外形は変わっても、全体として受ける印象は変わらないままだ。

浪漫派の歌人 吉井勇 「仁丹の灯よさらばさらばと」

吉井勇という明治生まれの浪漫派の歌人がいる。秋の歌も酒の歌も良い。この歌人が仁丹の看板のある風景を歌っていることを鎌倉の父が教えてくれた。諳んじていたくらいだから、よほど好きだったようだ。

「東京の秋の夜半にわかれ来ぬ仁丹の灯よさらばさらばと」

大正の頃の浅草は東京の中心であり、仁丹塔はランドマークだったそうだ。仁丹の看板を子供の頃に見た記憶があるが、今時の日本で見かけることはなくなった。2011年の秋に台湾を訪問した時に店先で見つけて懐かしかった。祇園の情景を歌った一連の作品もある。

「かにかくに祇園は恋し寝(い)るときも枕のしたを水のながるる」

という歌が有名だが、京都でも仁丹の広告を歌った作品がある。

「仁丹の広告も見ゆ橋も見ゆああまぼろしに舞姫も見ゆ」

吉井勇は「ゴンドラの唄」の作詞者としても知られている。大正4年(1915年)に吉井勇が作詞し、中山晋平が作曲したこの歌は、芸術座のイタリアを舞台にした物語で女優松井須磨子が歌って流行した唄だ。吉井勇の作詞については大きく2説があるようだ。一つは童話で有名なアンデルセン(デンマーク)が1834年に書いた「即興詩人」の森鷗外訳(明治35年出版)を読んだ吉井勇が、その本の中に出てくるヴェネチアの里謡を基に作詞したという説だ。もう一つはイタリア在住の作家塩野七生氏が1987年の「わが友マキャベリ」で指摘して以降広く知られている説で、イタリアの「バッカスの歌」をイタリア旅行をした誰かが帰国後、吉井勇に教えたのではないかというものだ。

岩波文庫の森鷗外訳「即興詩人」を読んでみるとヴェネチアに向かう舟の上で、船頭の若者の歌を聴く場面がある。「其辞にいはく、朱の唇に触れよ、誰か汝の明日猶在るを知らん。恋せよ、汝の心の猶少く、汝の血の猶熱き間に。白髪は死の花にして、その咲くや心の火は消え、血は氷とならんとす。」 「ゴンドラの唄」の一番はこの鷗外訳の内容と一致し、とても格調が高い。二番、三番になると、だいぶ調子が変わって率直に娘を口説く歌になる。アンデルセンは、この地元の歌について「まことに此歌は其辞卑猥にして其意放縦なり。さるを我はこれを聞きて挽歌を聞く思ひをなせり。老は至らんとす。少壮の火は消えなんとす。我は尊き愛の膏油を地上に覆して、これを焚いて光を放ち熱を発せしむるに及ばざりき。」(森鷗外訳) 酒と恋と歌を愛した浪漫派の吉井勇がこの本を読んで感激したであろうことは想像に難くない。

吉井勇が京都で密会中の三島由紀夫にばったり出くわす話を、最近読んだ岩下尚史「見出された恋 「金閣寺」への船出」(文春文庫)の中で見つけた。「金閣寺」を雑誌に連載中の三島が取材も兼ねてか、恋人と境内を散策していると「漂泊の老歌人がひとり、ぶかぶかの背広の後ろに手を組んで、鷹揚な足取で散策するのが見えた」という記述が出てくる。三島の恋人だった女性が「新橋の老妓たちはあの方の名字の吉井をばらして、トロセイさんと呼んでますのよ」と三島に教える場面がある。この聞書き本を書いた岩下尚史という人はこの頃テレビで見かける。長らく新橋演舞場に勤務した人ので芸能の世界に詳しいらしい。この本は面白い。

吉井勇は詩人堀口大學にも大きな影響を与えている。関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」(岩波現代文庫)によれば、堀口大學は旧制長岡中学を卒業して、もともとの出生地である東京に戻った。堀口青年がある時、長岡に帰る夜汽車の中で読んだのが短歌雑誌「スバル」に掲載されていた吉井勇の短歌百首だったそうだ。これを読んで感激した堀口青年は与謝野寛・晶子夫妻の率いる明星派の短歌グループだった新詩社に入門する。

堀口大學はやがて短歌から詩に転じていくが、その浪漫主義的な傾向は吉井勇、与謝野晶子から影響を受けたものであることがこの聞書きに書かれている。吉井勇は自分を慕う堀口青年を神楽坂辺りまで飲みに連れて行ったことも書いてある。堀口大學は旧制長岡中学出身で、わたしにとっても大先輩にあたる。「仁丹の灯」の歌を読んで以来、憧れてきた歌人吉井勇とわたしの幽かながらの接点を見出したようでうれしくなった。

2015年2月24日火曜日

開高健「花終る闇」 「馬馬虎虎」の世界

開高健の「花終る闇」は傑作「闇シリーズ三部作」の最後を飾るものだが、未完の作品だ。「輝ける闇」のベトナム体験、「夏の闇」の精神的な墜落体験の後で、死期をぼんやりと感じ始めた小説家がシリーズの完結をめざして、気力を振り絞って取り組んだ作品と思われる。この小説は「漂えど沈まず。」で始まる。この言葉は茅ヶ崎にある開高記念館に石碑になっている。小説家は流浪の途上で出会った女性たちを回顧する形で、走馬燈のように自分の生きてきた時間を振り返る。絶筆となった「珠玉」とほとんどパラレルな感じがする作品だ。「メイキング・オブ・珠玉」という見方もできそうだ。

この本の中に女性と主人公が「どうなの、近頃」、「マーマーフーフー」、「何、それ」、「漢字で書くと馬馬虎虎。昔の中国人の挨拶だそうだよ。。。馬のようにも見えるし、虎のようにも見えるってこと。日本式でいうと、ボチボチってところか。曖昧語法というやつだが、なかなかいい表現だよ。」と語り合う場面がある。これは越後弁の挨拶の「なじらね」(ご機嫌いかが)「なじょうも、なじょうも」(何ということもなくての)の世界そのままだ。


世界を旅した開高健が新潟県の銀山湖を愛し、新潟の酒を愛したのはよく知られている。開高健が新潟に通ったのは、魚や酒以上にどこか共感するものがあったのだと思う。雪国の人々は冬の寒さの中で口をはっきり開けないで言葉を交換する。口数や語彙を減らして、目で語り、身体表現で語る世界であり、西側の言語で明晰さが尊ばれるのとは大きく異なる世界だ。開高健は茅ヶ崎の書斎で深夜まで文章を練っていると、目の前に見える漢字がただの形に見えてきて、意味をなさなくなる経験をしたことをエッセイに書いている。頭の中に思い浮ぶ概念を言葉で表現しようと呻吟するのだが、原稿用紙の上に書いてみた言葉が正しい選択であるのか考え続けたようだ。きりのない作業に疲れると酒を飲み、さらに行き詰まると銀山湖へ釣りに出かけ、それでも煮詰まると世界を旅する。彼にとっての新潟は、言葉で表現されない言葉を探す旅の出発点だったのかも知れないと思う。

2015年2月23日月曜日

関容子 「日本の鶯 堀口大學聞書き」

いつの間にか岩波現代文庫という棚を書店で見かけるようになったが、この文庫には良い本が多い。この本もその一冊だ。詩人堀口大學は旧制長岡中学出身なので、大先輩ということになるが、もともとは東京本郷の生まれだ。父親の九萬一氏の東大在学中に赤門の近くで生まれたことから大學と命名されたと本人が説明している。それから父親が明治時代初の外交官領事官試験に合格し、韓国に赴任したので、留守家族は長岡に移り住んだ。

この詩人が3歳の夏の長岡の花火を鮮明に覚えているのは、その秋に亡くなられたご母堂が入院先の病室の窓際でじっと花火を観ていた記憶があるからだそうだ。その後、父親は赴任先の韓国で閔妃暗殺事件の関係者として40数名と共に責任を問われ、広島の刑務所暮らしを経験する。やがて釈放され外交官への復職は果たしたが、多くの外地を転々とする。一方、長岡中学を卒業して東京へ出た息子は吉井勇に心酔し、与謝野夫妻の新詩社に出入りし文学青年になる。赴任先のメキシコに呼び寄せた息子にフランス語の勉強をさせたのが、その後の詩人としての飛躍の始まりということになる。


ここまで読むとエリート父子の物語だが、堀口九萬一は長岡藩の下級武士の家に生まれ、戊辰戦争で父親が戦死し、母子家庭で苦学して身を立てた人だ。詩人の祖母は、長岡人にとっての偉大な先人である戊辰戦争時の国家老河井継之助についても辛口のコメントを残している。誰の視点から語られたかで歴史の解釈は変わるものだ。

この本には詩人が与謝野寛に初めて会った時の長岡と父親についての問答、与謝野晶子が越後の名山弥彦をよんだ歌のこと、佐藤春夫との交流、銀座から新宿を経て神楽坂まで飲み歩く吉井勇について行く話、佐藤春夫と太宰治の交流、永井荷風の思い出などなど日本文壇のこぼれ話がたくさん収められている。もちろん訳詩集「月下の一群」の詩人らしく、父親の赴任地メキシコで始まったフランス語修行に始まり、ジャン・コクトー、マリー・ローランサン、ギョーム・アポリネールとの交流の記憶も語られている。とても面白い本だ。

2015年2月21日土曜日

インテリジェンス小説を読んでいたらヌクスの美術館のことが出てきた

情報のプロとして知られている元外交官の書いた尖閣問題に関する小説を読んだ。この本は2014年に刊行されている。本のメインのテーマは「尖閣問題の棚上げについての合意」の有無だが、この点については2011年に服部龍二「日中国交正常化」(中公新書)の中でも第8章として論じられているので、機密情報の暴露という感じでもない。

この本の面白さは「謀略」としての外交関係を、自らの外交官としての経験を基にしつつ「小説」の形で書いていることだ。理想と使命感に燃える主人公はその信念を貫くことで本省の主流から外れ、ウズベク赴任を考えたり、イランなど在外公館を経験することになる。小説の中に第三者の形で著者自身が登場するが、主人公が経験するこれらの国は著者自身の赴任国でもある。つまり現在の著者が自らの若い日々を振り返る形で書いた小説だ。


この本でもう一つ面白いのはウズベキスタンのヌクスにあるイゴール・サヴィツキー美術館について詳細な紹介がなされていることだ。この美術館はロシア・アヴァンギャルドのコレクションで有名だ。紹介のドキュメンタリー映画もある。小説の中では良寛、中島みゆきなども引用されていて面白い。「信念を貫いて生きよ。左遷を怖れることはない」という青春小説としての読み方もできるだろう。