2014年11月19日水曜日

アントン・チェーホフ「イオーヌイチ」

チェーホフの小説を読んだのは仕事でロシア語圏の国に住むようになってからだ。太宰治とか伊藤整の本にチェーホフの名前が出てくるので漠然とした憧れの気持ちはあった。最初に読んだのは「犬を連れた奥さん」だった。主人公の独白の形を借りて繰り出される冷徹な人生観、中年男の倦怠、人生をどう仕切り直すのかなどをとても率直に論じている。この本以来、この作家を意識するようになった。

2008
年の夏をサンクトペテルブルグで過ごした時に「イオーヌイチ」のオーディオ本を買った。それから文庫本を読んだ。この小説の主人公イオーヌイチ君は医者になりたての好青年だ。地方の名士の家の一人娘に一目ぼれする。この18歳の娘の描写が瑞々しい。作者自身の初恋の記憶が混じっていそうな気がするほどだ。「表情はまだ幼くて、腰つきもほっそりとやさしかった。いかにも初々しくて、もうふっくらとしたその胸は美しくて健康そうで、青春を、まぎれもない青春を語っていた。」「彼女の生き生きしたようす、眼や頬のあどけなさに彼は魅せられた。」

勇気を奮ってイオーヌイチ君はデートを申し込む。ノートに書かれた娘の返事は「今夜や墓地で会いたい」だった。心ときめかせたイオーヌイチ君は指定された場所に向かう。明け方まで待ち続けた青年はこの夜、不思議な体験をする。「黒々としたポプラの一本一本に、墓の一つ一つに、静かな、すばらしい、永遠の生命を約束している神秘が宿っていると感じられる世界だった。」「これらの墓には、かつては美しく、魅力的で、恋に落ちて夜ごと愛撫を受けながら身を焦した女や娘たちがどれほど埋められていることだろう、と。」「目の前に見えるのは、もはや大理石の片らではなくて、すばらしいいくつもの肉体だった。彼は、それらの姿が恥らうように木かげに隠れるのを見、その温もりを感じた。」

すっぽかされたイオーヌイチ君は懲りもせず、燃え上がる気持ちで娘にプロポーズする。娘の答えは理路整然としていた。ピアノを弾くこの娘は芸術を愛している。娘は芸術家としての名声や自由に憧れている。平凡な奥さんとして家庭に縛り付けられるなんてまっぴらだ。やがて娘はモスクワに音楽の勉強に行く。

それから4年が経つととんでもない逆転が起きてしまう。娘はモスクワから戻るとかつての熱情から解放されて現実的な結婚相手が欲しくなる。太って貫禄も出てきたイオーヌイチ君は最適の花婿候補だ。それにかつては自分に夢中だった男だ。ところが墓場で娘を待ちながら何かしら哲学的に目覚めてしまったイオーヌイチ君はもはやかつてのうぶな好青年ではない。中年にさしかかり物事を斜めに見る癖のついたイオーヌイチ君には、自分とよりを戻したがっているまだ20代前半の娘が平凡な田舎娘に見えてしまう。

チェーホフ先生は美しい初恋の物語を何故こんなにも捻じ曲げてしまう必要があったのだろうか?自分自身のつらい失恋の体験をこのような形で総括したかったのだろうか?18歳の地方の娘が芸術に憧れ、都会で勉強してみたいという気持ちは誰でも理解できる。娘は悪くないのに、ここまで変わってしまう男の恋心とはいったい何だろうか?娘に裏切られたわけでもないイオーヌイチ青年の心に何が起きたのだろうか?そう考えると深夜の墓場で垣間見た永遠の美の世界を覗いてしまったことで、彼の心の中に現世的なものへの懐疑心が芽生えてしまったとしか考えようがない。これと言った結論があるわけでもないこの小説は淡々とイオーヌイチ君の生活を描いているだけなのだが、恋の儚さについて考えさせずにはおかない。怖ろしい本だ。
                 (引用はちくま文庫「チェーホフ短編集」松下裕訳より)

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