2015年6月15日月曜日

睡蓮と蓮の比較  宮本輝「睡蓮の長いまどろみ」と五藤利弘監督「花蓮~かれん~」

日本では蓮は清らかな白い花を咲かす辛抱と清浄の象徴とされている。山田洋次監督「男はつらいよ」で寅さんは「泥に落ちても根のある奴は、いつか蓮の花と咲く」と歌っている。蓮は葉や花が水面から立ち上がる。似たような花を咲かすが、葉も花も水面に浮かんでいるものがある。こちらは睡蓮だ。フランスの画家モネが睡蓮の池を題材にしたことはよく知られている。蓮の学名はNelumbo nuciferaで、睡蓮の学名はNymphaeaという。後者は、半神半人の美しい妖精ニンフに由来するものだ。英語では蓮がlotusで、睡蓮がwater lilyだが、エジプトの国花ヨザキスイレンはNymphaa lotusだからややこしい。日本でも睡蓮の自生種は昔からヒツジグサと呼ばれる。洋の東西に分布している睡蓮にはいろいろな種類があって、熱帯睡蓮の花は水面から立ち上がるそうだ。この両方を含む言葉として蓮華が使われることもある。蓮を国花としている国にはインド、ベトナムがあり、睡蓮はエジプト、タイ、バングラデシュ、スリランカで国花になっている。

 蓮の花言葉は「清らかな心、神聖」で、睡蓮の花言葉は「清らかな心、信頼」なので、これも似ているが微妙に違う。神話を題材にすることを得意としていた英国の画家ウォーターハウスは美少年ヒュラスが泉の精であるニンフたちに池の底へ連れて行かれる場面の絵を描いている。ここでは睡蓮は若者を水底へ連れて行く妖艶な美女の象徴だ。ギリシャ神話でヒュラスはヘラクレスの従者だ。ヒュラスが近くの泉に水を汲みに行くと、泉のニンフたちは美しい若者の手を取って水底に引き込む。この若者は水底の国でニンフと結婚したそうだ。この話は面白い。「蓮」のイメージが神聖さや厳かさであるのに比べて、「睡蓮」のイメージは人間の憧れや欲望につながるものであることを示すからだ。妖精であるニンフは、半分が神的な存在であり、残り半分は煩悩に満ちた人間だ。

宮本輝の小説に「睡蓮の長いまどろみ」という作品がある。「蓮」と「睡蓮」の対比が描かれている。
「睡蓮の長いまどろみ」は逆境の中に生まれ、次々と困難にめぐりあう美しいヒロインの一生を、そのヒロインに「捨てられた子」の視線で描いた、かなり複雑な母恋い物語だ。この小説の中に登場する蓮と睡蓮の記述が圧倒的に詳しくて面白い。

「もともと日本に自生していた睡蓮はヒツジグサと呼ばれた。未の刻に花弁を開くと言い伝えられたからだ。未の刻とは午後2時だが、睡蓮が花を開くのは実際に午前中で、夕刻には花を閉じてしまう。」(上巻260頁)

「古代エジプトでは、睡蓮は生命力とか生産力とかの象徴で、復活の祈りをこめてミイラの棺に載せたりしてる。再生っていう意味もあった」(下巻177頁)

「物事には必ず原因と結果がある。。。ところが、蓮の花は、原因と結果が瞬時にそのなかに生まれてる。。。因果倶時。」(下巻180頁)

「因果倶時の譬えは、蓮の花だけなのね。睡蓮にはあてはまらない。。」(下巻292頁)
 
            (宮本輝「睡蓮の長いまどろみ」文春文庫上・下巻)

この小説の主人公である「母に捨てられた息子」は屈折している。彼は赤ん坊として母に抱かれた記憶がないことについて、「人間が人間になっていくための最初の何かが欠落している」ので自分の性格や癖が歪んでいるのではないかと不安に思う。やがて主人公は、真実と向き合うために、自分を捨てた母を訪ねる旅に出る。主人公が発見することになるのは、次々とふりかかる困難に立ち向かい「泥に落ちても、自分を失うまい」ともがきながら生きてきた気丈な母の生き様だった。その母が続く不幸を宿命と感じていたことが「因果倶時」という言葉で表現されている。老境に入った彼女はようやく「睡蓮」と「蓮」は違うのだと気付き、仏教的な諦念から自由になる物語である。


わたしがこの小説家の作品を最初に読んだのは太宰治賞を取り、映画化もされた「泥の河」(1977年)だ。1999年から中央アジアの国で勤務するようになった後で、この人の「ひとたびはポプラに臥す」というシルクロード紀行を読んで感動した。それからこの人の円熟期以降の作品を集中的に読んだ。「ひとたびはポプラに臥す」は、新聞連載され、その都度単行本となり、1997年から2000年にかけて全6巻が刊行された。「草原の椅子」(1999年)、「睡蓮の長いまどろみ」(2000年)など、この紀行シリーズと並行している時期に書かれた作品は中年になったこの作家が生きる意味や、人々の運命について考察しながら、物語を紡ぐ形の小説になっていて読み応えがある。同じようにシルクロードと中央アジアにこだわった井上靖とも対談している。

仏教の伝統的なイメージでもある宿命に耐え抜くことでやがて見事な白い花を咲かせる「蓮」の花と、女性としての魅力、生きる力としての欲望の象徴でもある「睡蓮」の花を対比させることにより、宮本輝は主人公の母親のけなげだが不運続きの前半生と、異国で人生を切り開くたくましい後半生を描き分けた。この小説が気になった人に是非観てほしい映画がある。
茨城県霞ケ浦を舞台にした五藤利弘監督の「花蓮~かれん~」という映画だ。この映画では、けなげに耐えて待つ伝統的なイメージの元カノと、異国に留学しながら自分探しの旅をするヒロインとの対比が描かれている。

三浦貴大が東京の大学を出て地元の会社に勤めている若者を好演している。レンコン農家の両親の老いを感じるたびに、この先のことを考える。一度は故郷を離れて東京で就職したが、地元に戻ってきた元カノを浦井なおが演じた。そこにキタキマユ演じるヒロインである日系タイ人留学生の美少女カレンが現れる。3人の若者の想いのぶつかり合いを縦糸にしながら、親子の関係、地元で生きること、異国で生きることなど様々な横糸がからんで味わい深い映画だ。霞ケ浦の蓮田の風景が圧倒的に美しい。二人のヒロインがどちらもけなげで魅力的だが、微妙に違っている。この二人をそれぞれ霞ケ浦の「蓮の花」、熱帯の国タイの国花である「睡蓮の花」の妖精なり化身なりに例えてこの映画を観ると面白い。


 
 

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