2015年6月3日水曜日

司馬遼太郎「台湾紀行」と河井継之助のこと

司馬遼太郎は1971年、47歳の時に週刊朝日に「街道をゆく」シリーズを書き始め、1996年に急逝するまで書き続けた。そのつど出版された単行本は43冊になる。この40冊目が1994年に刊行された「台湾紀行」だ。この新聞記者出身の小説家を知ったのは実家の兄の本棚からである。「龍馬がゆく」が1968年にNHKの大河ドラマとなり、たいへんな人気だった。新潟県の田舎の私の家でも兄が司馬遼太郎の本を愛読していた。この頃「龍馬がゆく」、「国盗り物語」、「峠」などをわたしも読んだが、こちらは中学一年生くらいだったせいか、あまりピンとこなかった記憶がある。

1986年の夏から2年間、アメリカに住むことになって、その前年くらいから書店に行くと参考になるような本を物色していた。それで見つけたのが、この人が1985年に2度にわたってアメリカを旅行した経験をまとめた「アメリカ素描」だった。この時は自分が初めての海外生活を控えていたこともあり、一行一行を真剣に読んだ。その観察の細かさと何とも言いがたい哀調のあるおだやかな文章が印象的だった。わたしはこの時から司馬遼太郎のファンになり、この人の書いた紀行文や文明批評に興味を持つようになった。


その後、1991年から現在まで続いている海外暮らしの中で、この人が近代の日本について書いた文章に注目するようになった。そして読んだのが文春文庫全8巻の「坂の上の雲」だ。これは読み応えがあった。さらに司馬氏が中国やモンゴルなどアジアについて書いたものもフォローした。これには自分が中央アジアで仕事をするようになったことが影響している。わたしの経験では、司馬氏の本は空想による物語よりも、緻密な取材の結果をもとにあれこれと分析が挿入された紀行や随筆が圧倒的に面白い。そう考えると中学生の時にこの人の大河ドラマの原作本に興味がなかったことも納得できそうだ。


「台湾紀行」に話を戻すと、2011年に仕事で台湾に行く機会があったのでこの本を興味深く読んだ。この本の中の「山人の怒り」という章については別にブログを書いてみた。日本統治時代に起きたセデック族による反乱である1930年の霧社事件や、侯孝賢監督の映画「悲情城市」(1989年)で描かれた第二次大戦後の移行期に起きた1947年の二・二八事件など、台湾の歴史と、それに日本の統治が与えた影響についての司馬氏の考察はとても参考になる。この本が注目されるのは、巻末に当時台湾のトップであった李登輝総統との会談録が付いていることだ。その結びに司馬氏は以下のように書いている。

  • 「幕末、越後の長岡藩に河井継之助という家老がいました。。(中略)。。徳川にも関係なく、薩摩・長州にも関係なく、武装中立でいこうとした。しかし時代の暴力的な流れに押し流されてしまう。日本史の一大損失でした」。
  • 「この時代、河井継之助は新しい国家の青写真を持った唯一に近い - 坂本龍馬も持ちましたが - 人物だったのに、歴史は彼を忘れてしまっている」。
  • 「台湾の運命がそうならないように、むしろ台湾が人類のモデルになるように、(「台湾紀行」を)書きながらいつもそう思っていました」。
司馬氏は河井継之助を主人公とする「峠」という小説も書いている。よほどこの長岡藩の家老が気に入っていたようだ。長岡はわたしが生まれた土地なので、河井継之助は同郷の大先輩にあたる。司馬氏の絶賛に近い河井評にも関わらず、地元では長岡を戦火に巻き込むことを回避し損なった責任者として恨みに思っていた人も多いらしい。長岡出身の父を持つ詩人堀口大學氏によれば、戊辰戦争で夫を亡くし子供を抱えて苦労したお祖母さんは河井継之助についてかなり批判的だったそうだ。このエピソードは関容子「日本の鶯 堀口大學聞書き」の中に出てくる。堀口大學氏は東京本郷生まれだが、新潟県立長岡高校の前身である旧制長岡中学を卒業している。堀口先輩については別にブログを書いている。

長岡高校の応援歌「出塞賦」にも河井継之助は登場する。蒼龍窟は河井継之助の号である。

 「嗚呼黎明来る 黎明来る 暁の鐘殷々と 
  兜城下に鳴り響く 門出の朝祝ふかな 

  かの蒼龍が志を受けて 忍苦まさに幾星霜 
  必勝の意気胸にして 進み出ずる柏葉門」





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